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つながっとは?/ アットローン

[ 297] 空も、つながっている
[引用サイト]  http://arusc.cocolog-nifty.com/

ポール スタラード: 子どもと若者のための認知行動療法ワークブック―上手に考え、気分はスッキリ楽しい雰囲気のワークシートを使って、上手に考えることを学べる本です。子どもとのカウンセリングの場面でも使いやすいです。私も、自分の子どもにもやらせてみようと思います。 (★★★★)
かしま えりこ: スクールカウンセリングモデル100例―読み取る。支える。現場の工夫。心理療法やカウンセリングという枠組みから援助を行うのではなく、子どもたちの生活の場の中で心理臨床のスタンスからできることを積み重ねてきたという実践の集積でしょう。 (★★★★★)
以前は、スクールカウンセラーが配置されていない学校がほとんどでしたので、異動すると、異動した先の学校では初めてスクールカウンセラーを迎えるという学校がほとんどでした。最近では、ほとんどの学校に一応(1ヶ月に4時間であっても)スクールカウンセラーが配置されていますので、異動した先の学校には前任者のスクールカウンセラーがいることがほとんどです。
そういった学校では、前のスクールカウンセラーと継続的に相談していた生徒や保護者との相談を引き継ぐことになります。そういった生徒や保護者にとって、新しいスクールカウンセラーに出会うのはどんな気分なんだろうなぁと想像したりします。
スクールカウンセラーに限らず、多くの専門機関や病院、○○相談所、カウンセリングセンターでも、担当者が退職したり、異動したりすることがあります。そういうカウンセラーに継続して相談していた来談者は新しいカウンセラーに引き続き相談をすることになります。だから、「相談を引き継ぐ」ということは、スクールカウンセラーの場合に限ったことではありません。
しかし、相談を引き継ぐことに関して、おそらくスクールカウンセラーに特別に生じる問題があります。それは、相談室のレイアウトや雰囲気、環境の問題です。
スクールカウンセラーの場合、学校のカウンセリングルームの環境を個人の持ち物を使って整えています。私の場合、ちょっとした額に絵を飾ったりしています。それらは、個人の持ち物ですし、次のカウンセラーが必要としてくれるかどうか分からないので、その学校には置いていかず次の勤務校に持っていきます。そのため、新しくスクールカウンセラーが着任した際には、相談室はほとんどまっさらの状態になっていることがよくあります。
また、新しいカウンセラーが着任することを良い機会にして、学校側が相談室内の環境を整備することがあります。それは大げさなものではなくても、なぜか相談室に置きっぱなしになっていた映らないテレビをかたづけるといったことは、良くあることです。
そういったことがあって、新しいスクールカウンセラーが着任するときには、相談室は前のカウンセラーの時とは雰囲気が変わっていることが、非常に多いと思われます。
そういったわけで、前のカウンセラーと継続的に相談していたクライエントも、なんとなく今までとは違う相談室で新しいカウンセラーと出会うわけです。相談室のちょっとした変化も、クライエントにとっては居心地の悪さにつながるものになるように感じます。あるいは、ちょっとした相談室の変化を通して、以前のカウンセラーとの相談関係が終わったという現実、そして新しく相談を始めていかなくてはならないという現実を再び実感するのかもしれません。新しいカウンセラーと、見慣れているはずなのに今までとは違う相談室で出会うということは、クライエントにとっては、余計に寂しかったり・悲しかったり・居心地が悪かったりするのではないかと思われます。
前のカウンセラーからの相談を引き継ぐクライエントと出会うときには、カウンセラーの側がそういうクライエントの気持ちに目を向けて、それを大切に扱わせてもらうことが、前のカウンセラーとの相談関係、前のカウンセラーと相談した時間、前のカウンセラーと相談したときのクライエント自身の気持ちの動きを尊重していくために、非常に重要なことではないかと思われます。
こんな風に考えてみると、新しく引き継いだ相談室のレイアウトや雰囲気がどんな風に変わったのか、どんな風に同じなのかを引き継いだクライエントに聞いてみることは、悪いことではないように思います。聞いてみて、前はここに座ってたんですね、とか、ちょっと殺風景になったんですねとか、話題にさせてもらい、相談室環境に関してのこちらの不備や準備不足について申し訳ないと感じる点については謝罪したいとおもいます。
こんなふうな始め方は、新しく相談関係を始めなくてはならないというクライエントの当面のテーマについて、小さくおだやかに関わってみることにつながるかもしれません。
私たちが持っている時間は限りがあります。スクールカウンセラーの勤務時間が少ないということだけではなくて、私たちはいつか死んでしまう存在ですので、私たちが持っている時間には必ず限りがあります。限りがある資源を有効に使うには、資源を使う先をよく考えないといけないですね。だから、今生じていることのなかで、何に関わっていけるのか、何に関わっていきたいのか、ということがすごく大切だと思います。
しかし、何かを見つけることができなければ、それに関わっていくことはできないのです。だから、何を見つけることができるかということが、すごく大切なことのように思います。
見つけていないものに、きちんと関わることができることもあるように思います。それは、私の場合、大いなる自然を連想します。余計な意図や人為がない自然がそこに生きているのでしょう。無為自然、(タオ(道)…?)ですね。しかし、それはある境地に達した名人の業でしょう。私は小さな工夫を積み重ねていたいように思います。
そのドキュメンタリーの最後の部分で「闘病の甲斐なく、○○歳で亡くなられました」とナレーションがありました。
「闘病の甲斐なく亡くなった」と言われると、共有できたその時間そのものの価値がないように言われてしまったような気がします。
私は、「闘病の甲斐があった、おかげで、大切な時間を共有できた。」と言いたいし、言ってほしいように思います。
最終的には、全ての人は、死んでしまいます。死んでしまうから生きてきたことが意味がないわけではなく、生きてきた時間に意味があり・価値があるように思います。私たちは必ず死んでしまうのですが、全ての闘病、そして明日も生きていこうとする小さな努力は、必ず甲斐があるのです。
「なんか、最近、うちの学校は、授業に出ないで廊下をうろついている生徒が目立ってきてるんです。そのうちの1人の生徒Aは、相談室の前を通りかかると、通りすがりに、相談室のドアをガンガンけっ飛ばして、「○○おるんかあっ!!!!」と私の名前を呼び捨てにして、大声で叫ぶんですよ。」
私が最初に連想したことは、“この子は、スクールカウンセラーがいない日も、相談室のドアをガンガンけっ飛ばして、大声で叫ぶんだろうか?”ということです。スクールカウンセラーは、週に1日程度しか学校にいないので、学校にスクールカウンセラーはいないことの方が多いのです。スクールカウンセラーが学校にいない日に、その子は、どんな風に学校で人と関わって過ごしているのかなぁ・・・?と想像を巡らせてみました。
もし、その子が、スクールカウンセラーのいない日に、スクールカウンセラーのいない相談室のドアをガンガンけっ飛ばして、「○○おるんかあっ!!!」と叫んでいるとしたら・・・と、その様子を想像すると、切ない気分になります。その子は、何かを求めているのに、何もないところに向かって、叫んでいるわけです。大きなエネルギーが何もないところに向かっているところが、その子が抱える空虚さをはっきりと示しているように感じます。そして、スクールカウンセラーという存在は、その子にとって、いるかいないかつかみ所がない、いてもいなくても同じ「非常に不確かな存在」だということだと思います。
そこで、相談室のドアをガンガンけっ飛ばして、「○○おるんかあっ!!!!」と叫んでくる子には、こんな風に関わってみたいなぁと想像しました。まず、相談室のドアを開けて、「こんにちは、ご用ですか?」と穏やかに応え、チャンスがあれば、「私は、週に1日しかいないけど、スクールカウンセラーがいない日にも、そんなふうに私のこと呼んでるの?」と聞いてみたい気がします。
1.の場合は、「いっつも呼んでもいねぇし・・・。ほんとに影薄いよねぇー。仕事さぼってばっかだろ、役立たずだし。バーカ!!」などと、答えてくれそうです。そんなときには、「いっつも、呼んでくれてたんだね、ほとんどいないから、申し訳ないねぇ。」と応えたい気がします。
2.の場合は、「いるかいないかぐらい分かってるよ。バッカじゃねぇの?」と応えてくれそうです。そんなときには、「いるかいないかは、どこで分かるの?」と聞いてみたい気がします。「ハァ? いるときは電気がついてるだろっ、ボケ!」などと応えてくれる場合と、「来る日は、○曜日だろ、それぐらい知ってるよ、バカにすんなよ、ボケ!」などと応えてくれる場合があるような気がします。
電気がついているからわかる、という場合と、曜日で分かる、という場合の違いは、その子にとって、スクールカウンセラーの存在が、「確か」なものであるかどうかということの違いだと思います。電気がついているから分かるという場合には、その子にとってスクールカウンセラーは、いるかいないか分からない、いたりいなかったりする、「あまり確かではない」存在だということです。曜日で分かっているという場合には、その子にとってスクールカウンセラーは、いないことも多いけど、いるときははっきり分かる、「少し確かな存在」だということが言えます。
「電気がついているからわかる」と応えてくれる子には、「じゃあ、いるときは必ず電気つけとかないとね。」と応えたいと思いますし、「曜日で分かる」と応えてくれる子には、「たまには違う曜日にも来るから、チェックしといてね」と応えたいと思います。
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