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肝要とは?/ アットローン

[ 274] 寛容の涵養が肝要
[引用サイト]  http://generosity.spaces.live.com/

猛威を振るった夏の暑さもようやくその権勢に翳りを見せ始め、オーストラリアの大地にも秋の物憂い風が吹くようになった。一つの季節の移り変わりと同時に、私達の旅も大きな転機を迎えることとなった。これまで7ヵ月半を過ごしたアデレードを離れ、西海岸の都市パースへと移動をすることにしたのだ。当初の予定では、もっとずっと早くパースに辿り着いているはずだったのだが、財政上の理由やその他諸々の事情から結局一年の半分以上をアデレードで費やす羽目になってしまったのだ。離れる時には、それまでアデレードで出会った人々から送別会を開いてもらったり、お守りをもらったりして別れを惜しんだ。旅というのは常に出会いと別れの繰り返しだということは分かっているのだが、出会いの喜びと同じ様に別れの寂しさには慣れるということが決してない。ましてや国内とは違い、異国の友人とはいつでもまた会えるというわけではないのでその思いもひとしおである。帰国する前にもう一度必ずアデレードに寄ることを約束して、一路西へと旅立ったのだった。
この国へ来た当初、メルボルンからアデレードまで長距離列車で移動をしたのだが、今回もまた列車を利用した。しかも今度の移動は前回の倍以上の距離だ。主に三本ある大陸横断鉄道の中でも最も移動距離の長いこの列車は、東海岸の太平洋に面したシドニーから西のインド洋に面したパースまでを結ぶ、その名もインディアン・パシフィック号。広い広い大陸を横一直線、真一文字に結んでいる。途中イギリスがかつて核実験を行ったナラボー平原という、広大な文字通り何もない大地を横切る。揺られること実に一日半をかけて、アデレードより一回り大きくシドニー・メルボルン・ブリスベンに次ぐオーストラリア第四の都市パースへと降り立った。
パースには誰か知り合いがいるというわけではなく、またもやゼロからの出発だったが、アデレードの時と同じ様にまずはバックパッカー向けの安宿に投宿して、掲示板を頼りにシェアハウス探しを始める。市街には日本食を初めとしてアジア系レストランも数多く、比較的住み易そうな雰囲気が見て取れる。街の中心近くに日豪センターの事務所を見つけ、すぐにそこに行ってみる。語学の問題もさることながら、情報の正確さ・応対の懇切さにおいてハッキリ言って日本人の右に出る者はいないからだ。これはアデレードで学んだ教訓であるし、またひょんなことから顔見知りになったこちらに20年近く住んでいるおばさんからのアドバイスでもあった。とにかく旅行者の多い街だから、情報には事欠かない。これまでの経験も踏まえて、パースに来て一週間もしない内に安くて好立地なシェアハウスに二人落ち着くことが出来た。
新しく我が家となったのは、なんとオーシャンビューの一軒家。市の中心からはやや離れた所だが、そんなことは全く意に介さないほどの絶景だ。シーズンオフと言うこともあってか、そんな所を破格の値段で借りることが出来た。アデレードでも海の近くに住んだが、こちらの海はさらに美しい。ガイドブックによれば、日本人に人気の高い東海岸のゴールドコーストよりもこちらの海の方が実は美しいということだった。ゴールドコーストには行ったことがないので比べることは出来ないが、眼の前に広がる海を見ているとこれ以上のものはないに違いないと、世界中の海を見て来た私をしてそう言わせしめるほどここの海は素晴らしい。コバルトブルーの夢心地を日々堪能していると、だんだん日本に帰りたくなくなってくるほどだ。
住む所が決まったところで、腰を落ち着けて今度は仕事探しに取り掛かる。こちらもアデレードで3ヶ月も探し続けてついに得られなかったものが、一週間で見つけることが出来た。やはり海に程近いフィッシュ&チップスの店で、最初に客として行った時の印象が良く、尋ねてみるとちょうど運良くバイトを募集していたのですぐに始めることが出来た。小さな店ではあるが、東欧のチェコからやって来た中年夫婦の経営するそこは、いつも二人の気配りが行き届いた清潔な店内とサービスの良さ、何より味の良さで周囲にレストランが立ち並ぶ競争率の高い場所でも、細々としかししっかりと生き残っている。
最初にバイトに入った日には、平日だったこともありそれほど忙しくなかったので、二人と色々な話をした。お互いつたない英語ではあるが、充分に意志を通じ合わせることは出来る。二人がオーストラリアにやって来たのは、ほとんど私の生まれたのと同じ頃だという。今では塔の街として名高い観光地プラハ(チェコの首都)で、かつて惨劇が繰り広げられたことがある。まだソ連が健在で、社会主義思想が世界の半分の勢力を占めていた頃、その矛盾に気付いたチェコの人々が独裁政権を打倒して民主化を企てた。しかし周辺への波及を恐れたソ連が同盟国を伴って軍事介入をし、その動きを封じ込めた。「プラハの春」として知られるこの歴史的事件は、その影で多くの犠牲者を生み、二人のように祖国を捨てざるを得ない人々を生んだ、という訳だ。動乱の世を生き抜いてきた二人は、いわば歴史の生き証人である。彼らがここにいることの意味は、能天気な旅行者のそれとはまるで意味合いが違う。優しく穏やかな笑顔の裏側に常に滲むのは、容易には帰ることの出来ぬ祖国への並々ならぬ想いであろうと推察する。眼の前に広がる景色は確かに文句のつけようがないほど美しい。だが、ここは彼らにとって何の地縁も血縁もない、自分に結びつくもののないよその国のはずである。人が生きていく上で何より重要なのはそのような最終的に拠り所となるものであろう。今、偶然出会った彼らと同じ時を共有しているとは言え、私の方はいつかは帰ることが決まっており帰る場所が約束されている。そのことは、コバルトブルーの色をした淡く儚い夢心地などに比べて遥かに確かで幸福なことなのだ、二人の寡黙で勤労な背中はそう私に語りかけている気がしてならなかった。

 

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