言葉とは?/ ノーローン
[ 325] 心に効く言葉
[引用サイト] http://kotoba.ti-da.net/
平均的に何をやってもうまくいかないというコンプレックス。だから何をするにしても自信が持てない。偏った能力はイジメの標的になり、自信になるには時間がかかる。そして、何をすればいいかもわからないから、何もできない自分が嫌いになる。 そのうちに、自分が今までどうやって生きてきたのかがわからなくなり、何が楽しくて生きているのか、これからどう生きていけばいいのかがまったくわからなくなってしまう…。 幼い頃は好きなことを好きなだけできたはずなのに、大人になって急にそれが恥ずかしいことになったり、バカらしくなったりするのは、「周囲の目」という他者が自分に関わってくるから…大人になると“素直さ”は“愚者の象徴”のようになってしまう。 みんなに認めて欲しくて「こうしたいけれどそうする」と周囲に合わせ我慢しすぎると、自分のリズムを捨ててしまうことになる。そして「裸の王様」のように愚者には見えない服を…“虚栄”を身にまとい生きるしかなくなる。 それが本当にいわゆる「大人」というものなのだろうか? 僕達はいつだって「完璧に生きる」ことなんてできない。常に無駄の中、虚栄の中、偏りの中、自分にとって本当に必要なものは何か?ともがいて生きている。 何かをした方が“生き方の変化”は分かりやすいから、「新たなる挑戦」という名目のもと今までやったことがないことをやってみるのだけれども、“使いこなせない家電製品に埋もれた部屋”のように便利で不便、なんでもできてなにもできない状態を自ら創り出してしまう。 今まで精一杯に頑張って自分の容量はパンパンになっているのに、新たに何かをくっつけようとしても「ゴミ屋敷」にしかならなくなるのです。 掃除をするとき、一番の要は「ゴミをいかに捨てるか?」にあるといいます。あれもこれもそれも捨てられないとその時は思っているのに、模様替えや引越しの時はこれでもか!と言わんばかりにゴミが出るのはなぜでしょう。 長年の習慣、過去のトラウマ(心的外傷)などが少しずつ少しずつ、部屋の片隅に追いやられたホコリのように溜まっていくから、普段見ることもないし見たとしてもその変化に気付かない。 「何もできない」のは、「“何か”ができなくしている」ということ。自分というおもちゃ箱をひっくり返して全部放っぽり出して「何はなくともこれさえあれば」という自分にとって一番大切なものやことがわかったならば、それこそが「これからやっていこうと思う」こと、「自分の自信」とするはずのものではないでしょうか? あれこれと悩みにぶつかって物事がうまくいかないと、どんなに楽しいことが目の前に広がっていても笑えない。辛い自分に「〜だから」と幸福でない理由を並びたてては、「〜でありたい」という幸福な状態を思い浮かべることをしないでいる。 僕達の「失敗した!」と思う出来事は、そのほとんどが「誰かに何か言われる」という他人の目線が気になったときに起こります。 例えばシャツを前後ろ反対に着てもやり直せばいいだけ、でも誰かに指摘されればとたんにそれは間違いで「失敗」したことになる。誰それの評価、目線、「自分が周囲からどう見られているのか?」という観点が、自分のやりたいことを素直にできない状態にしてしまっている。 だから、僕達はいつでもシリアスなポーズをとり続けてしまう、失敗しても「頑張ったけどダメだった」というカタチに見せるために…それが失敗を笑えなくしてしまっているのです。笑えば「不真面目な奴だ」なんて見られてしまうかもしれないから。 僕達の現実とは、固まっていない液体のゼリーのようなもの。だから、そこに“意志”という名の凝固剤を混ぜると固定されフルフルと振るえながら器の上に姿を見せる。 でも、自分の意志ではない他人の評価や先入観があるとそれもそのように固まってしまうから、望まぬ現実に「やっぱりね…」と諦めることがほとんだと思う。 だから、泣いている自分を否定してはいけない、僕達が何かに“気付く”ということは、今この瞬間を先入観なしにありのままに認めるということ。 それに「笑顔」という凝固材を混ぜれば、不確定はあるカタチに確定されるのです。 この先良いことばかりじゃないかもしれない、でも悪いことばかりでもないはず。ならば、どんなに辛いときでも、心に笑顔を持っていたい。辛い自分を外しても幸せにはならない。辛い自分を愉しむ気持ちで。だから、この先は笑っていこう、喜んでいこう、愉しんでいこう。 だから、僕たちの毎日は自分の“実験”として、うまくいってもいかなくても関係のない、あらゆる可能性を試した結果です。 何をしても、何もしなくても、その“実験”は死ぬまで続いて、死んだ後は残された者に引き継がれていく…。希望も目的もわからないままに生まれてきたとしても、どうせなら楽しく生きたい。 やりたいことをやりたいだけやる、たったその「やりたいこと」が何なのか、それを見つけようとすることも「やりたいこと」なのだと思う。 見つからないから苦しい、どうしたいかがわからないから苦しい、でも本当に苦しいのは自分を誤魔化して恰好良く見せようとする心です。生活できるだけの経済力、生命の危険のない安心があれば死ぬまで穏やかに暮らせるはずだ、でもそうじゃないから…それだけじゃないから苦しい。 もし、何の障害も制約も嘘もない世の中を与えられたとしたら、何が自由で、何が本当のことなのかわからなくなってしまう。今多いに悩んで沈み込み、壁に閉ざされた狭い所に閉じこもってしまっているのならば、そこに自分の自由さを創りだせるチャンスに恵まれているということ。 だって「健康になった」という言葉の前には必ず「病気だった」という前提があるし、「幸運」の前提には「不幸」が必ずあるから。 生きることは死ぬことが前提になっている。 「死にたい」と誰かに言えば「やめろ」と言ってくれるけれど、「生きたい」と言っても「それで?」となってしまう。だから「生きたい」とき、「死にたい」と叫ぶしかないのだ。死んだように生きることほど、辛いことはない。・・・どうせなら、“死ぬほど”生きたい。 行き詰って行く自分がいるからこそ拓(ひら)ける…そこに本当に自分のやりたいことがあるはずです…息を止めてみれば、呼吸がしたくなるように。 僕たちの目の前に広がる可能性の海からコップ一杯の“生き甲斐”を掬い上げる…僕たちは、生きるという「実験」によって自分を救い上げていけるようです。 色々な誤解・偏見・処遇・立場…自分の心の奥にある柔らかい部分をザクリと無造作にスコップでえぐり取られて、手で抑えても傷口からドクドクと血がこぼれていってしまうような痛み。 相手をコテンパンにやっつけたらどんなにすっきりするだろう? でも自分の嫌悪を誰かにぶつけて解消しようとすれば、振り上げた拳はやり場のない自分に突き刺さり傷口をさらに大きくしてしまう…どうして自分ばかりが…。 どうしてそんなことを言われないといけないのか、どうしてその一言が人を傷付けることがわからないのか…その中に自分よりも相手が痛い目に遭えばいいと願っていることに気付かない。 負けている自分の姿を見透かされているような気がして、そうじゃない!と言いたいのに完全に否定できない自分がいることに哀しい…そして負ける言葉は暴力になる。やがてそのエネルギーは憎しみに変わり、許せないのは自分になる。そのまま時間が経てば、風船が萎んでいくように体中から力が失われてしまう。 そんな時大切なことは、“怒り”という形で色々な人や状況からエネルギーをもらっていると考えてみる。水のように無色透明で変幻自在なエネルギーだと。その性質上、逆に僕達はそのエネルギーをどのように使っても自由…そのまま受けた相手に返すのも自由、違うカタチにして使うのも自由、エネルギーであればあらゆる自分の“力”となるのです。 だから僕達は大いに怒らなければならない…エネルギーを力に変えるために。何かに噛みつくだけの怒りがそこにあるのなら、「心を入れ替える」必要なんてない。一見誠実そうに見えるその言葉の裏にはいつも自分を誤魔化して違う人格に見せようとする「嘘」があるから。 「心機一転」という言葉があるけれど、その心は“替える”ものではなくて転じさせて“変える”ことに意味があるのだと思う。怒りや不満・不安をぐっと“呑み込む”。 ただそれだけでは終らせない、自分の内面でそのエネルギーが変化していくのをジっと観察していく。そのエネルギーが自分にどう使って欲しいのかを聞き出すかのように。 吐き出せたらどんなに楽だろう? そのエネルギーは自分にとっては“毒”が体内に注入されるように危険で、備蓄すれば身を滅ぼしかねない。でも、正気を失わず見続ければある地点で違う表情を持ちながら膨らみ、そしてパァっと弾けて全身にみなぎってくる。人がそのエネルギーを“自分の力”として放出するとき、“火事場のクソ力”のように潜在能力をフルに使うことができるようになるのです。 でも、大人げないと何事にも我慢して、ニコニコと良い顔を見せることだけに努力させると、陰湿なイジメなど内面的な闇が増えて、今度は生きる力自体が失われてしまうと思うのです。それはハサミの使い方を危ないという理由で教えないのと同じ。大量に虐殺された象の子孫は牙を長く成長させないように学ぶ、殺されないために。 エネルギーはいつでもはけ口を探しているのです。だから僕達は“しかるべき蛇口”を開いて出してあげればいい。「怒る」ことは力に変わる。「優しさ」とはそれを抑えるのではなく活かすことを学ぶことなのだと思います。 未熟で時間が経たなければ成るものもならない焦り、思うように物事がすすまない苛立ち、どうせだめだろうという諦め、過去の失敗から立ち直れない後悔…。知らず知らずのうちに幸せを未来に置いて、今の自分に幸せを置くことを赦していない。 こんな自分じゃないはずだ、もっと大きな幸せがあるはずだと、そこに向かって努力してもちっとも現実は動いていかない。 当然のことながら叶えてはくれない、その人は実際には願いが叶うことを祈っていたのではなく、失敗したときに運や神様の責任にする「言い訳」が欲しかっただけだから。 誰かが自分の未来をなんとかしてくれる、今はみにくいアヒルの子であってもいつかは白鳥になって大空を羽ばたける…と、今ある苦労を全部チャラにしてくれる奇蹟の力を待っている。 つい僕は神様やご先祖の意志に導かれ守られると信じ、自分の能力を挑戦させる“今”をほったらかしにしてしまう。 入信し帰依(きえ)して自分の意志をそこに置いているのなら話は変わるけれど、僕達は間違いなく自分の“意志”で動いているのであって、何者かの力で動かされているわけじゃない。 確かに宗教や奇蹟という何者かが僕達を動かしているように思える。でも、それはたった一人の巨大な“意志”が世の中を動かして奇蹟を起こしてしまうことの証明にもなります。そのたった一度の奇蹟は何千年も世の中に影響し続けて僕達を圧倒してしまう事実。 まさに未来はその“神”によって創られている。 神がかり的なことは非科学的な迷信と思うかもしれない、でも、歴史にある革命はその“少数の巨大な意志”によって変えられている。みんながこうなりたい、あれが欲しい、それがしたいと思うことを少数派がそれをまとめてポンっと一つの形にして見せたとしたら?…みんながその一つの形を共有したとしたら?…世界はただ一つの形に真実を見てしまうでしょう。 もしかしたら、今目の前に起こっていることは、自分がそれを見たから起こったことで、見なかったら起こらなかったことかもしれない。一冊の本を手にとって読まなければ、その言葉と出逢うことはないように、何気なく無意識に自分の求めていたものが目の前に飛び込んでくる奇蹟。 自分の意志があって別の意志と共鳴するとき、僕達は“巨大な意志”の塊になって奇蹟を見ることになる…それが“神”“仏”と呼ばれる存在として見えるのかもしれない。 ならば、「よし、僕もやろう!私もやろう!」とみんなが共鳴しあう意志を持ち合ったとしたら、現代の“神仏”を僕達が創りあげることができるはず。 だから、ただ一人の未来を計画して実行していたとしても、変動する世の中では計画自体が自分の行動を縛り、臨機応変に対応することができなくなる…それが「こんなはずじゃなかった」となります。 未来をあらかじめ決定することは悪いことじゃないけれど、右肩上がりに成長してそこに到達する計画に期待はしない方がいいと思う。 もし自分の望む未来の予想図が、誰かの望む未来と同じであったならばそこに奇蹟は起こり未来が創られていくのだと思いませんか? 「『踊るんだよ』羊男は言った。『音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言ってることはわかるかい? 踊るんだ。踊り続けるんだ。なぜ踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。』 (「ダンス・ダンス・ダンス」上巻 村上春樹著) “彼”は突然に現れてまるで配電盤をいじる電気工事士のように、僕のこれからの進む道を繋げては何もなかったかのように静かに立ち去って行く…。 その時はとても自然で当然の出来事のように感じるから、つい僕は“彼”のことを気にすることもなく、道を行き交う人達の中に記憶を埋没させていく。そして僕はいつも後から考える、「あれはいったい何だったのだろう?」と。 今の僕の生活は、望む望まぬをさておき、なんとか成り立っている。でも、今を成り立たせている過去を省みてみると、自分でも理解不能な不思議な出来事がそこにあったことに気付く。目に見えない圧倒的な力というか、抗えない“波”のようなものにヒョイっと首根っこを引っ張られてそうせざるを得ない、もうそこ以外の道には進めないという状況や心境。 「神」という言葉で説明するのが一番通りが良いと思う、でも、「神」はみんなが望んだ先に存在しているのであって、「神」が気まぐれで何かをしているわけではないと思う。それでも“見えざる手”が気まぐれに現れて、ぬか床をこねるかのように僕達の行き先を“こなして”しまうような感覚に陥ってしまう。 どんな哲学や自然科学や心理学も、後出しジャンケンのように結果を検証するしかないから、誰かに答えを求めても「さぁ、どうなんだろう?」としか応えてくれない。いつだってグルメ番組のリポーターのように、「うまい」のバリエーションがあるだけなのだ。 そんな時、僕は「羊男」を登場させる。このまま頑張っても無駄に終ってしまうかもしれない、でも「羊男」が繋いでくれた舞台ならば僕は踊り続けるしかない、みんなが感心するくらいに。そうすれば、もしかしたら自分の望むままの世界でなかったとしてもなんとかなるのかもしれない。 ギィィィィィとねじまき鳥(※2)がどこかで鳴いている。その鳥は時より現れては僕の人生のゼンマイのようなものを巻いて、ブリキのおもちゃのように動かそうとする。 ユングの言うシンクロニティ(共時性)の世界のように、群像(※3)は偶然に見えて必然的に起こる。それが全宇宙の生命分の一の確率で誰かと出会い、全次元の時間分の一の確率で同じ空間に存在している。今目の前で起こっていることは偶然かもしれない、でも、その偶然は渡り鳥の羽ばたきがどこかの国で台風になるくらいの必然性があるのです。 今ここに自分が存在し誰かと出会い生きていくという“奇蹟”、そこで上手い下手は関係がない、とにかく踊り続けることを決意したのならば「羊男」はしかるべき次の舞台へ繋いでくれるのだと、僕は思います。 村上春樹の小説の登場人物。 名古屋テレビ(メ〜テレ)のキャラクター「ウルフィー」まではかわいくない、羊の皮をかぶったあやしい男。 羊男は小説の主人公の前に時より現れては新たな展開と大きな謎を残していく。 僕個人の印象は日本神話で出てくる「猿田彦の神」や、不思議の国のアリスに出てくる「時計を持ったウサギ」のように、異次元の世界を行き来する“道案内”のような役割をしているように思える。 いずれも脇役のような存在にも関わらず、物語のイニシアチブを握っている重要な“鍵”になっています。羊男のモデルは、多分「鏡の国のアリス」の方に出てくる船の上で編み物をしている羊人間ではないかと一人考えている。 これも村上春樹の小説に出てくる。 群像(ぐんぞう)とは、無関係に起きた別々の出来事がある時に突然繋がり一つの物語に集約されていく世界です。 自分という人間がそこにいるのに、何百何千と自分を区切って良い自分・悪い自分に分類し、痛みや苦しみを排除することによって安心・安全を得ようと考えてしまう。 そして良いものだけで構成した自分のつもりでも、ジワジワと時間とともにどこからか傷みだし、気付いたらまた元のイヤな自分が含まれてしまっている…。 それに気付かなければ何度でも「生まれ代わって」また同じことをやり直さなければならないという“地獄”を味わう。 でも、人生を新品に替えてスタートボタンを押しても主人公はただ一人、「自分」であることを“替える”ことはできない。 それに勝手に終了させてもほかの人達の記憶の中で「自分」は生き続けゲームは先に進んでいってしまうのです。 僕達はいつでも“痛い”のだ、痛みは人の中にもともとあって、それが状況や感情で大きくなったり炸裂したりする、だから痛みは他の誰とも共有できない。 壁に頭を打ちつけてその痛みが緩和してくる快感に浸れば、それ以前にあった痛みは一時的に忘れることができる。 でも逃れ続けるためには頭を打ち続けなければならないし、刺青を入れていくかのように痕になり全身を業で包むことになる。 自分の不幸さを誰かの責任にしてしまえば一時的にラクになる、でも恨み続けること以外に自分を慰める方法がなくなってしまうのです。 だから自分を分類して区別し都合の悪い部分、悪い自分、痛みや苦しみを排除しても幸せにはなれない。 僕達の心は腐った野菜とは違うからだ。 大切なことは、自分を全部拾って気付いてあげること、“痛み”がどこから発せられていて、どんな問題がそこにあるのかをただジっとみつめてみる…すると今まで逃げて拒否していたものが、自分のものだと “痛み”を肯定できるようになってくる。 「自分を変える」とは、性格や癖、長所や短所を変えるということではなく、そのままエネルギーを受け取る自分の器を“大きくする”…それが「自分を認める」ということではないでしょうか。 どんな不快でイヤなものでも100%全て自分であることを認める…“痛み”が外にあるのではなく内にあるのだと認めることができたのならば、必要以上に外の世界を恐れる必要がなくなるのだと僕は思います。 口と頬の境はどこにあるのだろう? 目と鼻の境は? 顔と頭、太いと細い、高いと低い、知性と感性、僕という人間と他の人間、金持ちと貧乏、健康と病気、死と生、成功と失敗…そして現在と未来。「平均」と「相対」という言葉においてどちらかに振り分けられるだけで、実際の境目は見えていながらどこにも見えない。 自分の過去を振り返り「平均」を出して、未来と「相対」させて比べてみる。でも未来が見えないからどんな平均を出しても納得できる答えは返ってこない。一攫千金、棚からぼたもち、ヒョウタンからコマのように未来は訪れ今までの自分をチャラにしてくれる、今までとこれからには明確な 「目標を持って努力すれば願いは叶う」という言葉にはウソはないと思うけれど、問題なのは僕がその言葉に“確実な保障”を求めてしまっていること。 なのに今うまくいかないのは「願いは叶う」なんてウソっぱちだからとか、保障が得られないのならば、努力しても仕様がないとか、勝手に未来に期待して思い通りにならなければ未来の責任にしてしまうのです。 まさに「お先真っ暗」な状態を自分で作り出してみる。するとどうだろう、最初立ちすくんで「もうだめだ」と思っていたものが、だんだんと「どうせだめなら」とモリモリやる気が出てくる。未来には保障された生活なんかないし、確証めいた運命なんかもないと思ってしまえば、今ここにある瞬間瞬間にしか未来は存在しなくなる。 結果を出さなければならない、今よりも良い状態でなければならない、失敗したらどうしよう、悪くなったらどうしようという気持ちが瞬間を曇らせ闘う意志を萎えさせようとする。 でも未来に対する期待も、不安も、今この瞬間に生きている自分がそう創りあげているのだと。 不安で眠れない夜、鬱々として幸せを感じることができなくなってしまった時、ヘナヘナと力が抜けてダメになりそうな自分がそこにいるのならば、それはチャンスなのです。 何故なら、心に余裕の無い分その瞬間瞬間にだけ意識を集中させやすいから。 未来に期待しない生き方…夢はあるものじゃなくて創られるものです、だから今この瞬間にこそ未来は創られていると思いませんか? 激しく、激しく全存在を賭けてぶつかり、闇の中で真っ赤な情熱の火花が散ったときに闘っている“敵”がふと浮かび上がります…“自分自身の姿”が。 自分自身との対面…いやったらしくて恐ろしい、最大にして最強の“敵”。それは、最大で最強の自分の味方でもある存在です。でもその“味方”は絶望の時は安心を求めている、何も起こらないようにすることを…前に進もうとするときにはそれが“敵”になり何もできなくします。 頭がキシリキシリと痛み、顔は青ざめ胸はドクンと苦しくなる。 吐き気とともに涙がこぼれてくるのに、何らかの結果を出さなければならないと緊張する状態。 それは粘っこく体にまとわりつき、弱いところを狙ってグイグイと押し付けてくる目に見えない圧力のようなもの。もしくは、水が浸水してくるように足元からジワリジワリと沈めてきて、腐ったところからポチリポチリと蝕み、まだ大丈夫だと何もしないと気付いた時には遅く一気に頭の先まで“呑み込まれる”。 足の震えは安心を求め闘いから逃れようとし、危険を遠ざけ、恐怖を遠ざけ、圧し掛かってくる重たいものがないことを幸福と感じ、自分にとってラッキーだと思える出来事をいつも探してしまう。 がいったいいつなのかカレンダーに書き込むこともできないでいる。いつになったら幸せになれる?いつになったら安心できる?…そんなことばかり考えてはイヤな日々をただ淡々と過ごせば、自分にとって都合のよい出来事の中でしか生きることができなくなってしまいます。 そうならば、「いつか」は永久にやってこないことになります。 何故なら全てうまくいかない限り都合の悪い出来事は決してなくならないから。 どうあがいても恐怖が自分に圧し掛かってくるのならば、いっそ自分を恐怖にぶつけてしまえばいい。知力、技術力、体力…自分の生命全てを賭けた総力戦。負けるかもしれない、失敗するかもしれない、そんな中もがいてもがいて闇を凝視し続けて初めて見えてくる“光”があります。それは出来る・出来ない、自信がある・ない等を超えた自分に対する“挑戦”。 「振り子の原理」のように、負荷が逆にかかると振り子は大きく揺れ、恐怖の強さも逆に振れる。もはやそこに成功・失敗は関係がない、何を得たとか何を失ったとかも意味しない、「挑戦した」という勝利。だから「いつかきっと」を探すことよりも、「使命感」によって恐怖に負荷をかけることで目に見えない「希望」を創造することができるのです。 自分を邪魔している様々な障害そのものも自分の人生であることに気付き、恐怖の中に自分の生命が息づいてくることを感じる…そこに“笑顔の自分を創る”ことができたとしたら、「都合の悪さ」は恐怖ではなく未知の可能性になる。 圧力に対して圧力をこちらからかけてしまうこと。 恐怖のどん底で大笑いしてしまえば、恐怖は恐怖でなくなってしまうようです。 メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。 解除は→こちら |
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