寛容とは?/ マイワン
[ 386] 不幸でも不運でも「勇気と寛容」で1年を過ごしたい ビジネス-宋文洲の単刀直入:IT-PLUS
[引用サイト] http://it.nikkei.co.jp/rd/rd.aspr?s=IT&g=000zv&n=MMITzv000027122006
TOPビジネスインターネットセキュリティーPC&デジタルカメラデジタル家電&エンタメモバイルトレンド展示会リポート 私はお酒も飲めませんし、ゴルフも楽しめません。趣味といえるかどうかは疑問ですが、農作業は大好きです。冬を越せる野菜はけっこうあります。大根にほうれん草に小松菜。もちろん玉ねぎやニンニクなども越冬します。お正月はこれらの野菜と一緒に過ごす時間を持ちます。 不思議なことに、同じ土に厳選した苗を植えて同じ条件を与えても必ず途中から成長が遅れる苗が出てきます。その苗の選び方が甘かったのか、たまたま植えたところに害虫がいたのかと苦悩している私に近所の農家の方がさり気なく助言してくれました。 「人間と同じ。植物にも持って生まれた偶然な運命みたいなものがある。確率の問題で理由を考えても分からない。でも、植物は何も悩んでいないよ」 同じ条件下でも他人と同じように頑張っても、他人ほど報われないことは人間社会にもよくあります。悪いこともしていないのに不幸なことが降りかかってくることもしばしばあります。 同じ種を同じように育てても、まったく同じには育たない この場合、我々人間はだいたい「不公平だ。なぜ私が・・・・・・」と思い、悩んだり、怒ったりします。人間を植物に例えるならば、農民はたぶん神様になります。そんな悩んでいる人間の姿をみて神様はきっと「人間は余計に悩む生き物だな」と呟くでしょう。 読者の皆さんのなかにはきっと「他人事だから気楽にいえる。当の本人の苦しみは分からない」と考える方もおられるかと思いますが、私はその当人の苦しみが和いでほしいからこんなことをいっているのです。 私もずっとアンフェアな運命に遭遇してきました。生まれた直後に中国では文化大革命が始まり、資本家の父親のもとに生まれただけの理由で我々兄弟達は社会から差別されました。いくら努力しても良い学校には入れず、良い就職もできませんでした。あまりにも理不尽な扱いを受けたとき、苦労している親についつい「なぜこんな家に僕が生まれたんだ」と文句を言ったことがありました。 答えに困った親の顔を思い出すと大人になった自分はいつも申し訳ない気持ちに襲われます。せめての懺悔として偶然な不運に当たった時、「なぜ私が・・・・・・」ではなく、「偶然や運命に文句を言うのは子供のすることだ」と自分に言い聞かせてきました。 生まれた時からお金持ちの子供もいれば、生まれた時から極貧の子供もいます。そう思えば、あなたは毎朝の目覚めを新たに生まれる瞬間として捉えることができます。今日は2007年の元旦です。やや極端ではありますが、30歳でも50歳でも今年あなたの家にあなたが生まれたと思えば、これからいくらでも変われると思いませんか。 格差社会と世間は騒ぎますが、格差のない社会はどこにもありません。冒頭で述べた植物のように、同じ土、同じ太陽、同じ肥料、同じ種・・・・・・何もかも同じであっても結果が同じにならないのは自然の摂理です。 映画の「ああ、野麦峠」を見て「戦前の日本の社会は社会主義革命が必要だったのだ」と思いました。日本は戦争にその出口を求めて失敗し、米国の政策によってやっと実現しました。格差を生み出す構造的原因を解消する「財閥解体」と「農地改革」がなければ、戦後の「豊かで格差の少ない社会」は実現しなかったかもしれません。 外国での生活経験をお持ちの方なら誰でも実感しますが、日本は最も格差のない社会の一つです。調査データもはっきり示しています。こんな理想的な社会を実現した日本においては、逆にちょっとした格差の拡大に過剰に反応し、これを「解消」しようとしています。 平和が続き、フェアな政策が実行され、社会に富が蓄積すれば、必ずある程度格差が形成されます。財閥も大地主もなく、チャレンジもしやすくなった今、ある程度の格差を社会のスパイスとして受け入れるべきです。 格差だけではありません。病気、事故、嫌な上司と職場、不幸な婚姻・・・・・・。これらの不運と不幸は偶然と運命としてどんな社会にも一定の確率で起きます。「福は内、鬼は外!」と我々の誰も自分こそ不運に当たらないことを祈るのですが、残念ながら鬼もどこかの家に入らないといけない節理です。 「鬼」ともたまに同居してみる勇気と寛容を持てば、意外とたいしたことがないと分かります。たまに「鬼」をみて、はじめて「福」を実感することができるかもしれません。読者の皆さんとそんな「勇気と寛容」の一年を過ごせればと願ってやみません。 ※宋文洲氏のコラムへのご意見・ご感想を募集しております。こちらのリンク先から、「宋文洲氏のコラムへの意見(もしくは感想)」と一言添えてメッセージをお送りください。お送りいただいたメッセージについては、このコラム上で取り上げる可能性がありますが、ご氏名やメールアドレスを公表することはありません。 -筆者紹介-宋 文洲(そう ぶんしゅう)ソフトブレーン マネージメントアドバイザー略歴 1963年中国山東省生まれ。85年に北海道大学大学院に国費留学。天安門事件で帰国を断念し、札幌の会社に就職するが、すぐに倒産。学生時代に開発した土木解析ソフトの販売を始め、92年28歳の時にソフトブレーンを創業。98年に営業など非製造部門の効率改善のためのソフト開発とコンサルティング事業を始めた。00年12月に東証マザーズに上場。成人後に来日した外国人が創業した企業が上場するのは、初のケースとなった。05年6月東証1部上場。06年9月会長を退任し現職に。著書には「やっぱり変だよ日本の営業」「ここが変だよ日本の管理職」などがある。 ● 関連記事ベンチャー企業が苦悩した2006年を振り返るマグロのない寿司は考えられませんか社会主義の理想に最も近い国「日本」――格差議論を考える |
[ 387] 「“寛容な心”を培って」生きる
[引用サイト] http://www.perfect-liberty.or.jp/bunkyou/ai/michi-s/michi-101.html
何かと言えばすぐ人の不足を思ったり言ったりする。人のすることにやたらとケチをつけたくなる。人の言うことやしていることを許さず、厳しくとがめる。自分の思いを人に押し付け、その通りにさせたがる。人と対立し、腹立てかんしゃくを起こして怒る。人の言動を気にしすぎる。人が物事をうまくやっているとねたんだり、悔しくて足を引っ張りたくなる……。 挙げるときりがないほどですが、こんな思いになることは日常の暮らしの中ではそう珍しいことではないでしょう。いや、お互い個人の間だけでなく、近所や職場、企業間や地域社会、民族や宗教、国家の間でもよくある現象です。そうならないためには。いろいろなことが考えられますが、ここではその一つ、「寛容な心」の大切さにスポットをあてておきたいと思います。 「寛容」とは辞書によると「1 寛大で、よく人をゆるし、受けいれること。咎めだてしないこと。2 他人の罪過をきびしく責めないというキリスト教の重要な徳目。3 異端的な少数意見発表の自由を認め、そうした意見の人を差別待遇しないこと」(広辞苑)とありますが、少し角度を変えてPLの教えに照らしてみますと――。 PL処世訓に「人生は芸術である」(第一条)、「人の一生は自己表現である」(第二条)と示されているように、人はそれぞれに人生をより価値のある香り高い芸術とするために生かされて生きているのであり、それぞれに自己表現を楽しんでいくのが神慮(みこころ)にかなった在り方なのです。そこに自分が生きているということの本来の喜びがあるのです。ですから、自分が芸術し自己表現しているのと同じように、他の人も自由に芸術し自己表現しているのであって、その表現の手法、技法、順序、手続きなどは自分とは違うのが当然なのです。 言い換えると、寛容とは「人の表現を尊重する」ということでもあります。従って、寛容の心でと言っても、例えば自分を人より上位に置いて相手を許す(許してやる)、認める(認めてやる)というのでは、まだ本当ではないでしょう。人が欠点や落ち度によって失敗したことを許すにしても、その気持ちの中に、彼は彼なりに一生懸命やったに違いない、自分も同じ立場に置かれたらいつ間違うかもしれない、というような理解や愛情に発するものがあってこそ、寛容の心と言えるのです。それは「人の表現を尊重する」という心遣いから生じるのです。 すなわち、人のどんな表現でも不足に思ったりとがめたり排斥したりせず、腹立てかんしゃくを起こして怒ったりせずに、ひとまず白紙の心でそれを受け入れて、よりよい対処の仕方を創意工夫する。自分の表現が大切なように、他の人の表現もその人自身の芸術なのだから、あくまで謙虚な心で尊んでいくのです。わがままや強情を張り通す、人の表現をねたんだりとがめたりするなどというのは、人の表現を尊ぶことにはならないのです。 寛容な心の人は、人に好かれ尊敬されます。人の協力を得られてより多くより大きく仕事をこなすことができます。自己表現がそれだけ豊かな幅広いものとなって、いつも新鮮で面白く、充実感に満ちた人生を歩むことになるでしょう。その反対に狭量な心の人は、自分さえ良ければよいという私利私欲の心になりがちなため、人から協力を得られず寂しい人生となるでしょう。 このことは個人間のことだけに限らず、近所や職場、企業間や地域社会をはじめ、民族や宗教、国家の間でも言えることです。自分の会社、自分の団体、自分の民族、自分の宗教、自分の国家のみが正当であると主張し、他を侵し排斥するところからは争いしかないことは、残念ながら現実に見聞きするところです。あくまで共存共栄を謳歌するか、他からうとんじられて孤立をかこつことになるか、まさに世界平和に関わる問題でもあります。 より度量が大きく、よりゆったりとした大らかな、より心豊かな心境で暮らす「寛容な心」を、是非培っていきたいものです。 |
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