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過ぎとは?/ レイク

[ 436] 過ぎ去ろうとしない過去
[引用サイト]  http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/

オタクを叩くマスコミ叩きに余念が無いはてなオタククラスタのみなさん、いかがお過ごしですか。まあ卒業文集引っ掻き回してまで「オタクの」「心の闇」を探し出そうとしたり、両親連れてきて人身御供にしたりするマスコミに怒るっていうのは、正当であると思います。
しかしですね。そのやり口はどうなんでしょう。普通のオタクは良識のある市民であって通り魔などしないだとか、両親は悪くない大人なんだから全責任は容疑者に、とか言ってませんか?
いや、今いろいろなところでやたらなされようとしている秋葉原の「神聖化」にそうしたものを感じざるにはいられないのです。
僕は、(通り魔事件のせいで)秋葉原に怖くて行けない感性というのがあまり理解できないのですけど、その真逆、つまり「我々は平和な秋葉原を取り戻すためにあえて日常を謳歌しなければならないのだ」式の「神聖化」はもっとどうなんでしょうか。
日常を取り戻すとはどういうことでしょうか。それは、通り魔事件をなかったことにすることです。秋葉原という街の記憶から、通り魔を消去することです。
しかし、本当にそれでいいんでしょうか。ぼくがこの事件そのものをことさらに取り上げるべきではないと言ったのは、それこそ事件「だけ」に着目していえば、必然的にそれは卒業文集的なワイドショー的消費になってしまうからであって、さっさと忘れるべきだという意味ではありませんでした。
たとえば実際に被害にあわれた方々にとっては、この事件ははやく忘れ去られるべきものかもしれません。特にこうした通り魔などの犯罪にあわれた方はPTSDなどを起こすことがありますから。
しかし、別にその現場にいあわせただけの、いやいあわせてすらいなかったオタクが被害者面をするのは、それこそ「不謹慎」な気がします。あるいはこれもある種の「不快感至上主義」と言ってもいいかもしれませんが。
そもそもなぜオタクは「われわれは傷つけられた」と思ってしまったのでしょうか。多くの「善良な」秋葉原のオタクたちにとって、通り魔は外部からやってきたものでした。彼はまさにオタク的な趣味を持ち、オタク的な言語を用い、オタク的な問題について関心があったにも関わらず、オタクにとっての「われわれ」の中には、彼は入れてもらえませんでした。
しかし、現実の秋葉原は開かれていて、外部はありません。秋葉原で起こったことに対して、これは秋葉原で起こってよい事件であれは起こってはいけない事件だった、という区別を設けることはできません。もし世の中が常に理不尽な力の暴発の危険にさらされているとすれば、秋葉原もその例外ではないのです、よって、通り魔事件は秋葉原の歴史において当然、刻まれる権利をもつのです。
確かに凄惨な事件でした。出来れば思い出したくない記憶であるかもしれません。しかし、秋葉原が「日常」を取り戻すために事件をなかったことにするなら―また再び何の屈託もなく「聖地」秋葉原という言葉が用いられるなら、記憶には抵抗する権利があります。
かつて、ベルゲン・ベルゼンの市民が、市のとある道をアンネ・フランク通りと改称しようとしたことに対して抵抗したというエピソードがあります。
そんなわけで、ぼくは秋葉原の中央通りを「加藤智大通り」と改称することを提案します。もちろん、歩行者天国の廃止などもってのほかです。通り魔行為を賛美するのでもありません。大事なのはそれが記憶され語り継がれるということです。それこそが事件を「消費」しない方法であるのです。卒業文集をいじくりまわすのも「消費」ですが、「通り魔犠牲者の屍を乗越え、ぼくたちはより楽しい秋葉原を」的なナショナリズム高揚も酷い「消費」の仕方だと思いますので。ええ。
逆じゃないかなあ、と思う。「現場の動画や写真を撮」った人たちは、「非日常」から自己を守ろうとしたんじゃなくて、むしろ積極的に「非日常」の中に自己を投企させていったのでは。つまり、彼は(言葉の定義にもよるのだが)ただそこにいるだけでは「観客」である(ようにみえる)。しかし、動画や写真を撮ることによって、彼はまさにネットの前で待ち構えている我々(あえて我々という)「観客」に対する「当事者」になろうとしたのではないか。
youtubeやニコ動において、みんなが賞賛してきたインタラクティブ性というのはつまりこういうことなんだと思う。偶然センセーショナルな事件の現場に遭遇しました、という事態は、自分が(受容者ではなく)「一次コンテンツ」の発信者になるチャンスに他ならない。これはやはりプロのジャーナリズムとは異なっていて、まあもちろんジャーナリズムにそのような性質が無いとは言わないけど、少なくともコンテンツの発信者と受信者が相互的なものであることによって生じた関係性・コミュニケーションそのものが情報発信の動機となり得る、ということはやはり特徴的であって区別されてよいと思う。もちろんこのような動機付け自体は昔からあって、井戸端会議的な場所で発散されてきたのかもしれないけれど、技術の進歩によってそれが広範囲の人に伝えられるようになりましたということ。
たしかに最初は面白そうだし、映像のネタになるだろうから。。。というのが配信をした動機だし、配信初めて視聴者が1000人超えた当りでかなり興奮しててただ撮ることに必死でした。
これが全てだし、まさにこうした心性を誘発させるようにネットに未来を求めていたみなさんはがんばってきたわけでしょう?
あたりまえだけど、ニコ動にせよyoutubeにせよ、もっといえばブログにせよ、そうした欲望って多かれすくなかれみんなあるわけじゃん。書くこと自体がアイデンティティになるっていう。だから「不謹慎」という人には、ブログのコメント欄にわざわざ出張って書いてるお前も同じことしてんだよと言いたい。まあとはいえ、個人的にはこうした「祭り」的な価値観から事件を発信することを、こうやってどっちもどっちな開き直りみたいな態度で正当化するのも魂に悪いので嫌。どうしようかしら。そもそも、この事件ってあまたの犯罪報道と同じでワイドショー的にやんやん騒いでも何か意味あることは出てこないだろうし、怖くて秋葉原行けないって人もいるけど秋葉原でこのような通り魔事件なんて確率的にはこの先50年は起きないんじゃねRK*1と思わないでもないから*2、特別な事件として深刻にいろいろ考えること自体が何かの罠な気もする*3。少なくともブログ論壇(かっこわらい)がこぞって取り上げなくてもいいんじゃないかなあ。
近代的な「生-権力」は人間がまさに可死的なものであることを出発点とする。そのため、権力は「生きるままにさせておく」または「死なせる」ものから、「生きさせる」または「死の中へ廃棄する」ものへと変容するのである。フーコーにおいて前者と後者の権力は区別されたものであったが、アガンベンはこの両者が一致する現代的な全体主義国家の分析においては、この区別が問題化されると指摘する。
フーコーが1976年のコレージュ・ド・フランスでの講義でこの問いに与えている答えはよく知られている。すなわち、人種差別とは、生-権力が人類という生物的な連続体のうちに区切りを刻みこむことを可能にし、そうすることによって「生かす」システムのうちに戦争の原理をもちこむものにほかならないというのである。(p111)*1
この生の連続体において、生の政治と死の政治は無媒介に一致するというのである。生政治は、この区切りにおいてしだいに領域を分離していき、その限界がナチスの生政治においては<回教徒>であった。
囚人が回教徒となる瞬間に、人種差別的な生政治は、いわば人権を越えていって、もはや区切りを定めることのできない閾に入りこむ。ここにいたって、国民と住民のあいだの揺れ動くきずなは、ついに粉々になり、定めることができず区切ることができない絶対的な生政治的実態のようなものが浮かび上がるのをわたしたちは目にする。(p112)
ところで、「生-権力」の誕生には医療あるいは医療ポリツァイの発展が大きく関わっていることは今更指摘するまでもないが、たとえばナチスの生政治は医療あるいは医療ポリツァイの産物であると言うと、多くの反発が寄せられるだろう。ナチスの思想はそれらを曲解してつくられた産物にすぎないと。
近代西洋医療は、日本で脳死問題が話題となるはるか200年前に、「早すぎる埋葬」という現象に対処することで、すでに死は出来事ではなくプロセスであると認識していた。ただ、200年前と今日で異なるのは、
医療におけるトリアージが、いくら技巧をこらせようと*3、生と死の境界をプロセス化するという事実はくつがえせない。その連続体の中で、生の政治と死の政治が一致しているのである。つまり「生きさせる」権力と主体的な行為としての「死の中へ廃棄する」権力であり、どちらが主でどちらが従であると言うことは出来ない。
いったい、トリアージされる人々とは何だろうか。彼らはまだ「生きている」が、死のプロセスの中に置かれている。それはアガンベンがいうところの「定めることができず区切ることができない絶対的な生政治的実態」に他ならない。彼らはただ「生きているのみ」に切り詰められた人間である。アガンベンはそれをホモ・サケル<聖なる人間>と呼ぶ。「生きているのみ」というのはつまり「死んではいない」ということで、レヴィナスの言葉で言えばそれは「非-人間」であり、過剰な剰余によって特徴付けられている。ゆえに<回教徒>はホモ・サケルとして姿をあらわすのだ。
もちろん、物資輸送は自衛隊である必然性は無い。自衛隊派遣に単なる人道問題以上の政治的な含みがあると考えるのはごく当然であろう。にも関わらず、そしてそもそも援助自体に反対してないにも関わらず、少しでも自衛隊の派遣という事態を問題化した瞬間、とにかく人道問題なんだ教条主義だと声高に批判される理由は?
それならば、政治的共同体から除外され、<命あるのみ>のホモ・サケルの権利に引き下げられた<人権>はどうなるのか。非-人間として扱われる、まさに権利のない者の権利となり、役立たなくなったときは>ジャック・ランシエール〔フランスの哲学者・政治学者。1940-〕が重要な弁証法的逆転を提案している。「……用がなくなれば、(…)海外へ送られる。(…)このような過程の結果として<人権>は権利を持たず、残酷な抑圧や生存条件に耐えることを強いられた、剥き出しの人間の権利になる。人道的権利として、それを行使することのできない、権利を絶対的に否定された被害者の権利となるのだ。それでも、無効ではない。政治的な名や政治的な場所が全く空虚となることはなく、誰かまたは何かによって埋められる……もし残酷な抑圧に苦しむ者たちが最終手段である<人権>を行使できないなら、別の者がそれを継承し、彼らの代わりに行使する必要がある。これこそが、犠牲となっている住民を助ける想定で『人道的干渉の権利』と呼ばれ、多くの場合は人道的組織の勧告に反して特定の国々が我が物にしている権利だ。『人道的干渉の権利』とは、一種の『差出人への返送』だといえるかもしれない。不要品として権利を持たざる者へ送られた権利が、差出人へ送り返されるのだから」(p165-166)
さらに、ランシエールが指摘する通り、イグナティエフが説くようなリベラル派の人道主義は、政治的関心を除くという点で、予想外なことにフーコーやアガンベンがとる<過激な>姿勢と合致する。<生政治>こそ西洋思想が行き着く先だというフーコー/アガンベン的観念は、一種の<目的論的な罠>にはまってしまう。強制収容所が「目的論的運命に思えてしまうのだ。我々一人ひとりがキャンプにいる難民の立場になる。民主主義と全体主義との差異は薄まり、政治的な行いは全て生政治的な罠にかかっていることが明白となる」。(p167)*4
災害救助への自衛隊派遣と、他国への人道的軍事介入が地続きであるのは、今までの議論を踏まえれば明らかである。今回の場合、中国政府の要請ということだから、それも地震直後から検討されてきたということだから、これは日本政府と中国政府の政治的共謀が働いていると誰でも思いつくだろう。しかしわれわれは「生政治的な罠」にかかることで、そこにある大きな問題性を見落としてしまう。9.11以降の、「緊急事態」を言い訳にした政治的行為である「対テロ戦争」に左派が一貫して反対の立場を取ってきたとするなら、当然今回の「生政治」の発露にも疑念を呈するべきなのである。その意味において、社民党のスタンスは正しい。
それでは、われわれはいかなる態度を取るべきか。上の引用においてジジェクが、フーコーやアガンベンの態度を「一種の<目的論的な罠>」であると指摘していることは重要である。彼が支持するのはバリバールなどの説である。
バリバール等の論述で展開される考察。近代化が新たな自由の分野を切り開くと同時に新たな危険も出現し、最終的な結果の目的論的保証などないまま、何でも起こりうる戦いの決着はついていない。(p160)
けれども、「全体」は敵対性によって構成されています。「全体」に同一化することは、その中で特定の位置を政治的に選択することに他なりません。「全体や組織から見た最適」は特定の政治的位置においてのみありうるのであって、切り捨てられる側がそれに屈服すべきいわれはありません。
もし生政治が「政治的なもの」のを排除することで権力を行使しようとするなら、われわれは全体は敵対性によって構成されていると言うことで「政治的なもの」の存在を明示させる必要がある。これは「ビッグブラザー」の創出ではない。そうではなくて社会における非政治的空間だとみなされていたものの間にある権力関係・政治的関係を丁寧に見ながら議論を進めていくということなのであり、むしろそれだけが「生政治的な罠」に陥らない唯一の道なのではないだろうか。
延期されたらしい。というか民間機のほうがたくさん運べるというなら、やはり自衛隊派遣は別の政治的な目的があったのだろう。
もちろんトリアージを拡大解釈するなってことは大事なんでしょうけど、どうして人はトリアージみたいなものを拡大解釈したがって、しかもそういうエントリには賛同ブコメがいっぱいつくんだろうってのも大事では。いや、「誰かを切り捨てなければ誰かを助けることはできない」っていうのが、彼の中で事実(Wirklichkeit)を通り越して真理(Wahrheit)にまで達しちゃってる人っていますよねっていう話なのですが。
なぜこんなに「月宮あゆが助かる〜」という考えを僕が憎むかというと、「誰かが助かることで、他の人は助からない」という考えというのが、ある種の奇妙な「社会性」みたいなものを他人に押し付けるために使われることが多いからなのかも。
倫理的な問題を考えるときに、「思考実験を構成して、選択肢のどれを選ぶかについて議論する」というやりかた。その際に(思考実験を成立させるために)さりげなく導入される「他に選択肢はない」という前提。この前提がどれだけ議論に隠れた影響を与えているのか、ということを考えたりするのです。
そして先生の側からしても、それは実は望むところでもあるのです。先生にとっては、女子学生を悪く思うことが、彼の一つのモチベーションというか、価値観の拠りどころになっている。
そういう人がヲタになると、たとえば『イリヤの空』みたいなのを絶賛したりする。「この残酷さにこそリアリティがあるのだ」って言って。キモいなあ。
それで、こういう人の価値観って確かにかの女子学生みたいな人をdisることによって保たれているんですよね。
自分のことに比べて、あいつのバカさ加減はなんと自明に思えることでしょう! さらに言うならば、ある種の信念は、他人と自分との認識のギャップであったり、無知な他人が居るという信念だったりに支えられているのではないでしょうか。
とにかくまあ、たとえば「俺だってかわいそうだとおもってるけど、でも切り捨てなきゃいけないんだよ」と言い訳したりすることもあります。どうなんでしょう。結局は、自分の中に「バカな女子大生」の像をつくって、「ダメだなあ、俺うっかり思考停止するところだったよ」って言ってそのかわいそさをdisることで、何かを切り捨てるのをばびゅーんと加速させるわけですよね。「確かにかわいそうだと思ってるよ。でも俺あそこでバザーなんかやってる連中とは違うよ」それは既に「かわいそう」だと思ってない気がします。
で、「世の中の残酷さを理解している俺ら」と「バカな女子大生」の境界は、彼らにとってはイニシエーションとしての教育だったりします。今回の事例に限らず、教育者ってトリアージみたいな「冷たい方程式」
あらすじは、あらゆる人々が幸福な街オメラスだが、それはたった一人の子供の犠牲によって成り立っている。オメラスの子供たちはある時期が来るとその事実を伝えられる。大抵の子供はそれを受け入れるが、ときどきオメラスから一人で歩み去る人々がいる、というもの。
ところが、犠牲によって共同体が支えられている仕組みに関して、作品中では明示されない。むしろ、「仕組みの詳細なんてどうだっていいじゃない。形は様々だけど、とにかく世の中にはそういうことがあるってことを、貴方も知ってるでしょ?」とでも言いたげな感じで語られてしまう。
て、逆説的ではあるけれど、まさに、この通過儀礼こそがオメラスの繁栄を支えているのではないかという見方を、語り手は述べている。
どういうことか。つまり、子供の犠牲の上に自分たちの繁栄が成立していることを知ることによって、オメラス住民は自らのありかたに対してある種の謙虚さとでも呼ぶべきものを身に付けるのではなかろうか。
そして、オメラスシティーの(慎ましいと言っていい)ユートピアは、まさしく、オメラス住民のその謙虚さによって成立しているのではないのだろうか?
そして、オメラス住民が一人黙って行動するということは、結局のところ、聞き手によって自分が理解され尽くしてしまうことを拒絶する態度、
今は道徳の時間です。あなたは小学校の教師です。道徳の時間はテレビ見せてればいいだけですからラクなものです。今日のテーマは「かわいそうなぞう」。舞台は戦中の日本。空襲が激しくなった大都市で、参謀本部は動物園の動物達を殺すことを決断するのです。当然飼育員は反対します。しかし軍は「オリが壊れて猛獣が暴れてもいいのか!」といいます。それ以前に軍に逆らえるはずがありません。泣く泣く飼育員は動物達を殺すことを決断します。ところが、ぞうのハナコだけは毒の入ったエサを食べません。飼育員は、エサを与えないで餓死させるようにしました。ハナコは、弱った体で芸を見せます。芸を見せればエサがもらえると思っているのです。感動の名場面!女の子の一部は泣いています。後ろでハナクソほじっている奴は無視です。モンハンやっている奴を発見したら、取り上げるかもしくはまざりましょう。さて、そのようなハナコの努力も空しく、ある日飼育員がオリを覗いたら、ハナコは死んでいたのでした。
物語は、現在の楽しげな動物園の様子を移してエンディング。あなたはテレビのスイッチを消します。そのとき、いちばん後ろで拍手が起こります。そうです、あれは我らが経営学者様です。「すばらしい!参謀本部も飼育員もトリアージを理解している!かわいそうと言うだけでは何も解決しない!」
さてあなたはその後、彼を教壇まで招いて、うやうやしくトリアージなるものについての講義をお願いするべきでしょうか。おそらくあなたがするべき最善の行動は、ぽかんとしている子供たちを横目に、丁重に経営学者様を教室から追い出すことでしょう。なにやらホンネだかネンネだかおっしゃっているようですが、我々にはあまり関係が無いことなので無視してしまって結構です。
さて、「限られたリソースを適切に分配すべきである」という言説について考えてみましょう。こんなこと当たり前です。はっきり言って、これ自体では何も言っていないのと同じです。問題は「適切な配分」とは何かです。
資源の有限性がその合目的的な最適配分を促し、戦略性やリーダーシップや組織内の規範意識も意思決定も価値判断もそこから始まる
経営学者様はこれが肝心だといいます。例として彼は四川大地震をあげました。ぼくもひとつ適切な例を知っています。ホロコーストです。
資源の有限性(アーリア民族の生存圏)がその合目的的(アーリア民族の生存)な最適配分(アーリア民族への配分、障害者やユダヤ人の切り捨て=虐殺)を促し、戦略性(ガス室)やリーダーシップ(総統の独裁)や組織内の規範意識(ハイル・ヒトラー)も意思決定(最終的解決)も価値判断(アーリア民族至上主義)もそこから始まる
これこそ経営学的には素晴らしい組織です。ユダヤ人がかわいそう?そんなこと言ってたら(最終的)解決しませんよ!偉大なるアーリア民族が貧窮してもいいんですか?というわけで、経営学の理想はナチス・ドイツだったのでした。
トリアージという発想がもともと野戦病院発、いかに効率的に人を前線に再投入するか、つまりいかに効率的に人を殺していくか、という考えから出てきたものです。われわれはそれがいかに人を助けるかという救急救命の思想へと変容していったかという、歴史社会学的な観点を持つべきです。この点で今現在、四川省で、あるいはかつて福知山線の事故で救急救命にあたった医療関係者にたいしては、当然敬意が払われるべきです。しかし、われわれは同時に、このトリアージという概念が戦争における技術的価値観から生じたものであり、トリアージはけしてその矛盾から逃れることは出来ないということは忘れてはなりません。なぜならば、トリアージがいったん、たとえば我らが経営学者様の手にかかって、救急救命の手を離れ一般的に通用する理論としてみなされたとき、上のような全体主義思想が復活するのです。
「かわいそう」の一言は、その全体主義にたいする、プリミティブな異議申し立てに他なりません。いわば、「王様は裸だ」と叫ぶ無邪気な子供のようです。たくさんの兵隊を連れて行進する王様にたいして、片やもう一方の経営学者様は彼女の単位を左右します。童話の王様は恥ずかしくなって逃げ出しますが、現代の王様は一味違います。「バカだなあ。王様が裸なんて当たり前じゃないか」と自らの裸を誇示するのです。
さて、「かわいそうなぞう」は何故「かわいそう」なのでしょうか。ぞうのハナコは、人間の安全を取るか、動物の命を取るか、という「苦渋の」合理的決断に殉じたのではありません。戦争、日本軍、あるいは「動物園」という形態……さまざまな人間社会の欺瞞によって殺されたのです。つまり、ハナコは合理性という王冠を被った裸の王様に殺されたのです。
それでも、このような欺瞞こそが人間社会なのであって批判は青臭いというなら、それはそれで構いません。ただしそのとき、我々はアウシュビッツを批判する視座を失うわけですが。

 

[ 437] J-CASTニュース : あまり静か過ぎて起こる ハイブリッドカー意外な「死角」
[引用サイト]  http://www.j-cast.com/2007/06/17008456.html

   「地球に優しい」ともてはやされるハイブリッドカー。エンジンと電気モーターを併用して走るため、低燃費に加えて騒音が小さいことも特徴のひとつだが、一部の消費者から「知らないうちに、すぐ後ろに来ていて驚いた」との苦情も寄せられる。自動車業界と、自動車製作を法令で所管する国土交通省は対策を練っているが、妙案は浮かばないようだ。
   国交省の審議会は2006年夏、「交通事故のない社会を目指した今後の車両安全対策のあり方について」と題した報告書のなかで、「ハイブリッド自動車を含む電動車両に関し、その静粛性ゆえ歩行者からの認知が遅れる懸念がある」と指摘し、対策作りに向けた検討を求めた。実際、メーカーの元にはハイブリッドカーの所有者から「歩行者がなかなか気づいてくれないが、クラクションを鳴らすのも気が引ける。音色の優しいクラクションをつけてくれないか」といった要望が来ているという。
   報告書を受け、国とメーカーで作る日本自動車工業会はさっそく検討を始める。まず、ハイブリッドカーは本当に歩行者の認知が遅れるのかどうかの検証だ。事故統計上、ハイブリッドカーが普通のガソリン車より歩行者とぶつかる事故が多いなどの傾向は確かめられなかったが、走行実験では、とくに時速15km以下になると、後方から接近するハイブリッドカーを認知できない人が増えた。
   しかし、これが意外と難しい。まず、冒頭の要望にもあった「音色の優しいクラクション」だが、道路運送車両法に基づく保安基準でクラクション(警音器)の音色や音量が決められているうえ「警音器と紛らわしいものを備えてはならない」と二重装備が禁止されている。これらは法改正をすれば済む話だが「クラクションは運転者が操作して音を出すもの。つまり、歩行者の安全を運転者任せにしているとも言え、これで対策は万全とは言いがたい」(自動車メーカー)という根本的な問題がある。
   そこで、日本自動車工業会が試したのは「車両接近警報装置」。エンジンルーム内につけたスピーカーから出す音によって、歩行者に車両の接近を知らせるものだ。しかし、歩行者には気づいて欲しいが、特に深夜の住宅街などでは騒音公害になりかねない。日本自動車工業会では試験コース内に住宅まで再現し、電車の発車ベルから車両のエンジン音、チャイムなど10数種類の音を流して妥協点を探ったが、結局、明確な結論は得られなかった。さらに「例え音色を決めても、それが自動車の接近音であるという認識を社会に普及させないと、歩行者は気にかけない」(同工業会)という、別の課題も浮上してきた。
息子とゆく夏の北海道普段は言えない、親父のカッコイイ戯言も北の国ならさらっと言えるかもしれない。息子と行くならこんな北国。おすすめです。
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[ 438] 使えな過ぎて笑う、パワーポイントのクリップアート集:小鳥ピヨピヨ(a cheeping little bird)
[引用サイト]  http://coolsummer.typepad.com/kotori/2003/10/post_33.html

なんでそんな目つきで僕を見るんですか! この人たちと一緒に仕事をする自信が、僕には全然ありません……
僕は仕事柄よく使います。で、見た目を飾るためにクリップアートを使おうといつも思うのですが、何故か僕のパワーポイントに登録されているクリップアートは強力に使えないものばかりで、いつも困っています。
琵琶法師、ベートーベン、アメコミ……三題噺ですか? これらが出てくるプレゼン資料があったら、ぜひ見てみたいものです。
謝ってないじゃん! ちょっと斜めになっちゃってるだけじゃん! プレゼン資料でこんなの使おうものなら、相手の火に油を注ぐことになること請け合いです。
こんな感じで、いつもクリップアートを開くたびに、「いったい何を使ったらいいんだ」と悩み苦しんでいます。
「パワーポイントにデフォルトで入ってるのは、何かの間違いで登録されたものばかりなんだ。オンラインに行けば、もっと実用的で格好いいやつが、たくさんあるに違いない」と思ったからです。
で、クリップオンラインに行って、適当にファイルをダウンロードして、開いてみると、こんなものが出てきました。
でも……資料はあと30分で作らなくちゃいけないし……時間がなかったので、仕方なくこのクリップアートを使って、無理やり資料を作ってみました。
……思いのほか個人的に好きな感じになって、びっくりです。大変気に入ったので、このまま役員会議に提出しました。
ときどきパワーポイントの講習会でクリップアートの使い方というのをやります。検索して使うとき一番無難なものを使っています。キーワードを「家」「雪」で検索してもらってそれだけを見てやってもらいます。
他にいろいろなものを見られると、特に新人研修の子たちは楽しくって研修そっちのけでクリップアート探しに没頭してしまうからです。
でも和風なクリップアートすべて使ったプレゼンで笑い以外を取れるなんてすごいですね。私もいつかそんなプレゼンができる人になれるでしょうか・・・心配です。
二番目のクリップアートは、ESPテストの風景で、並んでいる人達はエスパーです(断言)。というわけで、極めて特殊な業界では、使えないこともないのです。
一昨日、パワーポイントの「使えなさ」について論じたエッセイを読み自分のblogで紹介したのですが、ちょうどこちらを読んだばかりだったので、ついついリンクをはらせていただきました。
「こちらを見ている強そうな人たち」は実際に使おうとしてことがあります。「社外アドバイザー」のつもりだったのですが、あとで見直してあまりにも怖い人たちなので外しました。
試しに買ってみた市販のクリップアートも最悪で(車関係の絵が無駄に多い。パッケージには一言もそんなの書いてないのに),結局「鳴かぬなら,鳴かせてみせようホトトギス」の精神で,使えないものを無理やり使ってます。なんか分からないけど場が和むことが多いです。
あのクリップアートを縦横無尽に使いこなすのは、エクセルのマクロを使いこなすより難しいと思ってます。
それはそうと、上に挙げられているクリップアートでも応用の仕方では実はかなり使えるものになるかもしれないと思います。
僕のブログの記事で紹介しているFLASHにパワーポイントのクリップアートがたくさん使われているというだけでトラックバックしてしまいましたが・・・お気に召しませんでしたらすみません!
私、「またこっち見てるよ! しかもさっきの人たちより強そうだよ。」のアートは”インターネットユーザ”として使ったことがあります。150人を前にそれでプレゼンしてしまいました。。。
えらい亀コメですが、「使える」パワーポイントについて真面目に書いているブログ(英語ですが)を見つけました。
でも人に見せるときには、パワーポイントの仕様に従うと便利。それでもVisioの方が好きなタイプですが。
「パワーポイントらしいパワーポイントを作る」セミナーの類ほど、あらゆる可能性を閉ざしてしまうものはなかなか見当たりませんね。しっかり英語読んでみようと思います。
パワーポイントの基本操作を紹介しています。スライドショーやアニメーションの使い方等を紹介しています。
パワーポイントの基本操作を紹介しています。スライドショーやアニメーションの使い方等を紹介しています。ほかにもクリップアートや表、グラフの挿入法やおススメパワーポイントの書籍などの情報が満載です。
「当社の下請けの、そのまた下請け、孫請けという関連で・・」といった説明のシーンでムリヤリ使うというのはいかがでしょうか?
漫画喫茶のバイトを始めてからワードとかエクセルとかパワーポイントとかようやく分かりかけてきている中谷です。とか思ってたら、女の人が泣き笑いながら店に入ってきて、しかもかぁなぁり酔っ払ってる様子で、・・・な、何があったんだろう・・・?あ、ごめんなさい。... >>続きを読む
仕事上で、会社の不条理具合に非常にやるせなさを感じたので 元同僚になんか楽しい事教えてくれとメールしたら、これを教えてくれました。 小鳥さんの 使えな過ぎて笑う、パワーポイントのクリップアート集 仕事で >>続きを読む

 

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