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[ 382] ナウシカあるいは旅するユートピア
[引用サイト]  http://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/nou.htm

このほど完結したマンガ『風の谷のナウシカ』(徳間書店、以下マンガ『ナウシカ』と略記)を通読してみれば、この10余年を通しての宮崎駿という一人の表現者の凄まじい思想的苦闘をそこにみて取ることができる。
雑誌『アニメージュ』(徳間書店)でのマンガ『ナウシカ』連載開始が1982年であるから、完結までに要した時間は単純計算で12年間ということになる。しかもこのマンガ『ナウシカ』のアニメーション化であり、「宮崎駿」という名前を世間一般で通用するブランドとすることともなった劇場用アニメーション『風の谷のナウシカ』(徳間書店=博報堂、以下アニメ『ナウシカ』と略記)の興行が1984年であったから、本来マンガ家ではなくアニメーター、単独の芸術家的職人ではなくチームリーダー、企業家である宮崎は、集団作業、企業活動の成果としてのアニメ『ナウシカ』に満足できず、その完成のあともただ一人で慣れぬマンガの筆を執り、10年にわたってマンガ『ナウシカ』に取り組み続けてきたことになる。その間、宮崎はアニメーター、企業家であることを棄てずに、多くの優れた作品を手掛けてきたがゆえに、マンガは「余技」であらざるをえず、連載は幾度かの年単位の中断を余儀なくされ、私を含め少なからぬ読者はマンガ『ナウシカ』が永遠に未完のままとなることを危惧した。しかし、宮崎はそうした予想を裏切り、満身創痍となりつつも、10余年を掛けて作品としての完結にこぎつけたのである。
なぜそうまでしてマンガ『ナウシカ』は書かれねばならなかったのか?それはその継続、完結を著しく困難にしたもうひとつの、そして最も重要な要因そのものに関わっている。一部の読者が完結の困難たることを予想したのは、何もアニメーター宮崎の繁忙ゆえではない。ことはマンガ『ナウシカ』の内的なテーマそのものに関わっていた。宮崎はこの作品において、解決不能に近い思想的難問に突き当たっていたのである。この難問こそが、宮崎をして『ナウシカ』にこだわらしめた理由である。少なからぬ読者もまたその難問を共有し、その困難さに絶望を覚えたがゆえに、マンガ『ナウシカ』の未完を予想したのであった。少なくとも私はそうである。
しかし、とにもかくにもマンガ『ナウシカ』は完結した。私は雑誌連載の最終回を読み終えた際、壮快な敗北感に打たれたことを覚えている。やや先走って言うなら、この作品は現代日本のユートピア文学(「文学」という形容はもちろん不正確だが)の最高水準を示すものである。宮崎はここで、現代日本から見えるユートピアの可能性と不可能性について、可能なかぎりつきつめて考え、それをエンターテインメント表現に定着させたのである。
そこで、本稿の課題は、マンガ『ナウシカ』の内的なテーマ、その思想的難問(ユートピア問題)とは何だったのか、その難問に宮崎自身はいかなる解決を与えたのか、その解決は本当に解決となっているのか、を検討することである。
しかしながら、マンガ『ナウシカ』の検討にすぐさま入ることは避け、迂回路をとることにしよう。マンガ『ナウシカ』の、宮崎の達成の意義を少しでも正確に測るためにも、われわれの時代の優れたユートピア論、とりわけユートピアの困難さと誠実に向かい合ったいくつかの業績と、たんねんに付き合っておく必要がある。
とはいえ、近代以降のユートピア思想の流れを通覧、総括する余裕は本稿にはない。マンガ『ナウシカ』の固有の達成をそこから測定しうるぎりぎり最短距離に位置する問題設定を二点選び、そこから言うならば「三角測量」を行なう、これが本稿になしうる精一杯の作業である。
本節では第一の測量点として、「メタ・ユートピア」論を取り上げる。「メタ・ユートピア」とは、文字通りには「ユートピアの前提」あるいは「ユートピアを超えるもの」といった意味であり、一見したところ、その含意がわかりにくい概念である。しかし、このアイディアには二つのメリットがある。第一にそれは「ユートピアとは何か」「ユートピアとはどのようなものか」とただちに問うのではなく、「ユートピアを可能とするものは何か」「ユートピアが満たしていなければならない条件とは何か」と問うことの意義をわれわれに思い出させてくれる。第二にそれはこのように「ユートピアの条件」を問題化することをつうじて、思想史上のさまざまなユートピアのヴィジョン、その多様性を正面から問題とするようわれわれに促す。
このような視角はマンガ『ナウシカ』を読むとき、きわめて有効である。マンガ『ナウシカ』は単にあるユートピア像を素朴に提示している作品ではない。まずわれわれは、それが冷戦体制の終焉過程に伴走して描かれたものであることを想起せねばならない。詳しくは本稿第三節を、そしてもちろんマンガ『ナウシカ』のテクスト自体を参照していただかねばならないが、それは最終戦争後の人類の破滅と再生の物語であるかのように始まりながら、やがてその最終戦争が本当は「最終戦争」でもなんでもなかったこと――人類は現に生き延びており、相変わらず戦争を続けていることに否応なく気づかされていく物語になっていく。そしてまたそれは、最終戦争を文字通りの「最終戦争」とし、その後に人類すべてを救済するユートピアを樹立しようとする計画を愚行として退けていく物語でもある。マンガ『ナウシカ』はこのように徹底してユートピア主義批判を遂行しつつ、なおその向こう側になんらかの「ユートピア」――「どこにもない場所」あるいは「良き場所」を、人間の社会にとってのより良き可能性を、いったいそんなことが可能かどうか、というメタレベルの問いとすりあわせつつ、それでもなおあきらめずに探求する物語である。冷戦体制下の核戦争の悪夢と裏腹なかたちでの永遠平和のユートピアも、マルクス主義的社会主義のユートピアもその土台ごと崩れ去った「歴史の終わり」(フランシス・フクヤマ)に、なおユートピアの可能性、ないしは不可能性を真摯に問うたマンガ『ナウシカ』は、すでにして「メタ・ユートピア」論を含意している。
そこで本節では筆者は、アカデミックな哲学の領域でブリリアントな「メタ・ユートピア」論を提示した一つの業績を取り上げ、マンガ『ナウシカ』との距離をたえず意識に置きながら筆者なりの読解を加えていくことにする。
本節で検討の対象とするのは、哲学者ロバート・ノージックの名を世界に知らしめた『アナーキー・国家・ユートピア』(嶋津格訳、木鐸社。原著は
libertarianism、すなわち19世紀的「夜警国家」の復活とも言うべき、普遍的ルールとしての法律の遵守をメンバーに強制し、その執行に要する費用を徴収する以外には、そのメンバーの生活にいっさいの介入をしない、つまり福祉国家的な再分配政策や後見的保護を行わない「最小国家
minimal state」のみが、個人の存在のかけがえのなさとその権利(その核心は、今風に言えば自己決定権である)の不可侵性を前提としたとき、道徳的に正当化しうる唯一の国家形態である、との主張のマニフェストとして知られている。その意味では80年代を席巻した新自由主義
本書は、まずアカデミックには、それが主たる批判対象としたジョン・ロールズの『正義論』と並んで、70年代以降の英米哲学界に、道徳哲学、政治哲学の復権と再活性化をもたらしたものである。20世紀の英米圏の哲学は言うまでもなく「分析哲学」なる伝統によって主導されてきた。この伝統は、思考とコミュニケーションの装置としての理論と言語の精密な分析を武器に地味だが確実な達成を積み重ね、良くも悪くも哲学を「通常科学」にしたと言ってよい。しかしながら、それは倫理学、道徳哲学の領域にたいしては両刃の剣、より強く言えば去勢の刃として機能した。人間が生きるうえでの道徳的価値、理想自体は科学的、客観的な分析になじまない、あるいは道徳的選択に科学の名目であれこれの指示を与えることはできないという、それ自体おおいに道徳的な禁欲の姿勢は、英米圏の倫理学、道徳哲学を「メタ倫理学」、道徳そのものの分析ではなく道徳的言明の分析という一種のゲットーへ追い込むこととなった。人間の道徳的選択自体は科学的分析の対象とはならず、科学はその指針を直接に与えることはできないが、人間が道徳的選択を行なうということ自体は事実であるから、その事実を分析の対象としようというのが「メタ倫理学」の基本的なスタンスである。それはまさに倫理にたいしてメタレベルに立つ、つまり倫理と地平を共有しないという態度であった。
ロールズとノージックの仕事は、「メタ倫理学」からより直截な倫理学への、倫理に対するメタレベルから倫理そのもののレベルへの大胆な下降であった。そこではある一定の倫理、道徳、望ましい社会秩序、いわばユートピアの包括的なヴィジョンが、分析哲学の伝統のなかで鍛えられた粘着的な推論に支えられつつ、狭義の哲学のみならず、法学、経済学などの広範な知見を動員して提示されていた。以後、彼らの仕事は哲学のみならず、人文社会科学一般にとっての共有財産となり、道徳哲学、社会哲学は一挙に復興を遂げたのである。今日の生命倫理学、環境倫理学などのいわゆる「応用倫理学」の隆盛もこの延長線上でとらえられなければならない。
第二に、ノージックのこの著作は、単にユートピア構想を提示したということにおいてのみならず、そのユートピア像自体の内容において際立った独創性を持っている。本稿でロールズではなくノージックをとりあげることの意味もここにある。
本書の題名はすでに見たとおり『アナーキー・国家・ユートピア』であるが、この題名はきわめて適確にその内容を要約している。ノージックは次の問いから探究を開始する。「もし国家が存在しなかったなら、国家を発明する必要があっただろうか。国家は必要か。国家は発明されねばならないか」(3頁)。つまり「国家は、暴力の独占を維持し領土内の人々を保護する過程で、不可避的に諸個人の権利を侵害し、それゆえ本質的に反道徳的な存在である」(iv頁)というアナーキズムの主張を真剣に検討することが、本書の第一の課題である。その検討の結果として、アナーキストの主張に反して「最小国家」は正当化しうる――誰の権利も侵害することなしに「最小国家」は建設されうること、しかしながら、それ以上の規模と職掌範囲を有する「拡張国家
そしてその第二の課題は、「しかし最小国家の概念または理念は、渇望の対象となる魅力に欠けるのではないか。それは、心をぞくぞくさせ、人々に闘争と犠牲の気持ちを奮い立たせることができるだろうか。誰か一人でも、その旗の下にバリケードを築こうという気になるだろうか。」(
481頁)という一文に要約されている。つまり本書の叙述の順序に従えば、「最小国家」の概念は,まずは一方の極のアナーキー、他方の極の福祉国家や社会主義体制を含めた「拡張国家」という積極的な社会構想、それぞれ対極にありながら、ともに社会の現状を批判し、人びとのよりよい生き方へを可能とするユートピア的枠組みを追求する思想との対比において、消極的なかたちで導き出されている。そこでノージックは「最小国家」の理念が、あれも駄目これも駄目という手詰まりのなかでの消極的な選択肢などではなく、それ自体としての魅力を持つ積極的な選択肢でありうること、それは一つのユートピアでありうることを示そうとするのである。
ではいかなる意味において「最小国家」のもとにおける社会はユートピアであると言えるのか。ノージックの解答の要約を行なうとすれば、「ユートピアはメタ・ユートピアである」(
「導くべき結論は、ユートピアにおいては、一種類の社会が存在し一種類の生が営まれることはないだろう、というものである。ユートピアは、複数のユートピアから、つまり、人々が異なる制度の下で異なる生を送る多数の異なった多様なコミュニティーからなっているだろう。(中略)ユートピアは、複数のユートピアのための枠であって、そこで人々は自由に随意的に結合して理想的コミュニティーの中で自分自身の善き生のヴィジョンを追求しそれを実現しようとするが、そこではだれも自分のユートピアのヴィジョンを他人に押し付けることはできない、そういう場所なのである。」(
「我々は、三つのユートピア主義者の立場を区別することができる。つまり、全員に一つのパタンのコミュニティーを強制することを許す帝国主義的ユートピア主義、一つの特定種類のコミュニティーに住むことを全員に対して説得しまたは確信させようという希望をもつが、それを強制しはしない伝道的ユートピア主義、必ずしも普遍的にではなくともある特定のパタンのコミュニティーが存在し(存続可能であり)、そうしたいと思う者がそのパタンに従って生きることを希望する実存的ユートピア主義、である。実存的ユートピア主義者は、枠を心底から支持することができる。(中略)伝道的ユートピア主義者達は、その熱望は普遍的だが、彼らの好みのパタンへの支持が自発的である点が決定的に重要だと考えるので、実存的ユートピア主義者達とともに枠を擁護するだろう。(中略)他方帝国主義的ユートピア主義者達は、彼らに不同意の者が他にいる限り、枠に反対するだろう。」(
「最小国家は我々を、侵すことのできない個人、他人が手段、道具、方便、資源、として一定のやり方で使うことのできないもの、として扱う。それは我々を、個人としての諸権利をもちこのことから生じる尊厳を伴う人格として扱う。我々の権利を尊重することで我々を尊敬をもって扱うことによって、それは我々が、個人としてまたは自分の選ぶ人々とともに、同じ尊厳をもつ他の個人たちの自発的協力に援助されて、自分の生を選び、(自分にできる限り)自分の目的と自分自身について抱く観念とを実現してゆくこと、を可能にしてくれるのである。どんな国家や個人のグループも、どうしてこれ以上のことをあえてするのか。また、どうしてこれ以下しかしないのか。」(
こうしたノージックの最小国家論とユートピア論はもちろん、すでに述べたような20世紀英米圏の分析哲学以外にも、さまざまな伝統を踏まえている。第一に、ノージックの議論の出発点としての、個人の侵すことのできない権利と、人格としての尊厳、という思想について考えてみよう。上の最後の引用における、「他人が手段、道具、方便、資源、として一定のやり方で使うことのできないもの」というフレーズは、あからさまにカント的であるが、ロールズもまたカント主義的なスタンスを隠さない。社会における正義の基準を効用、快楽、利益に置く、現代経済学までをも含むいわゆる功利主義の伝統とは異なり、彼らは正義の基準をあくまでも権利のうえに求める。この意味でノージックとロールズはともに「権利志向的正義論者」と呼ばれる。
しかし、ノージックにとってカントと同じくらいに重要であるのはジョン・ロックである。ノージック独自の権利論(これは彼自身によって「権原理論
entitlement theory」と呼ばれている)、それはあからさまに『統治二論』におけるロックの所有権理論、いわゆる「労働による所有」論を援用したものである。また彼の「最小国家」論も『統治二論』の社会契約論によく似ている。ロールズの『正義論』もまた現代における社会契約論的伝統の復活とみなすことができるが、ロールズのそれが、誰もそこから逃れるべきではない包括的なものである点においてホッブズやルソーのほうに似ているとするならば、社会契約や国家の外側に生きる人びとの存在も容認するロックの理論のほうにノージックのそれは似通っている。
第二に、かように(功利主義的、効用志向的にたいして)権利志向的であることを思えば意外にみえるかもしれないが、ノージックは(ロールズとともに)経済学、とりわけ限界革命以降の新古典派経済学の思考スタイルと分析装置に強く依存している。お互いの権利を尊重し、それを侵害し合わないという制約のもとで、それぞれが自己の利益を合理的に追求して行動するという個人のモデルは、いわゆるホモ・エコノミクス、合理的経済人そのものであるし、「最小国家」の仮想的な生成過程は、一種の市場均衡過程、ないしは自然選択的進化過程として描かれている。またメタ・ユートピア、「枠」の構想にしても、それが諸ユートピア間の競争市場、そのなかで各ユートピア実験が自然選択のふるいにかけられる進化の場所として提示されていることは言うまでもない。
第三に、ノージックのユートピア構想が帯びている、強いアメリカニズムの色彩について触れておかねばならない。まず、ノージックの権利論・自然状態論の先達たるロック自身が、『統治二論』において、「自然状態」や「労働による所有」といった仮説のリアリティーを証してくれる現実として、同時代のアメリカにおける植民社会やネイティヴ・アメリカンの社会をあげていることを想起せねばならない。もちろん、ロックの理論はアメリカ独立革命にとって思想的支えの一つであった。またクリシャン・クマールは、19世紀のアメリカ合州国がオーウェン主義やフーリエ主義などの社会主義的な、あるいはシェイカーなどの宗教的なコミュニティーにとっての実験場であったことを指摘し、ノージックを引きつつ「19世紀アメリカは、この(ノージックのいう意味での――引用者)メタ・ユートピアであった。」(Krishan
さて、以上を踏まえたうえで、いよいよノージックのユートピア論にたいする、私自身の評価を行なわねばならない。
ノージックの「権原理論」、「最小国家」論、そしてメタ・ユートピア論、そのいずれについても、欠点を指摘すること自体はきわめてやさしい。わけても、上述のノージックの踏まえる三つの伝統の限界を突くというやり方は、ありうべき批判の最も典型的なパターンである。ロック的、カント的な「権利志向的正義論」の立場にたいしては、「功利主義」の立場からの批判が当然に提起される。またその新古典派経済学的な推論方式にたいしては、マルクス主義、あるいはケインズ主義、またエコロジー派など、さまざまな反主流派経済学からの新古典派批判が転用できる。そしてそのアメリカニズムにたいしては、19世紀後半以降のアメリカ合州国の歴史の現実自体がアメリカニズムを裏切ってしまったという事実、もはやアメリカは自立小農民の共和国でもなく、ユートピアの実験場でもないという現状をもって、そのリアリティーの稀薄さを撃つことができる。
しかしながら、これらの批判はいずれも決定打とはなりえない。つまり、せいぜいがノージックの主張の一面性や偏りを指摘するに止まり、それが無根拠なナンセンスであることを証明するところまではいかない。
第一に、「功利主義」の立場からの「権利志向的正義論」に対する批判として最も根底的なものは、ヘーゲルの「『正義がなされよ』は『世界は滅びよ』を帰結してはならない」(『法の哲学』130節)という一句に集約されるだろう。「権利志向的正義論」が議論すべての前提とする個人の権利にも、当然のことながら、現実にはそのまた前提がある。つまり、生存していくことができなければ、権利もへったくれもないということだ。仮に個人レベルでは、確率論的に、交通事故のようなかたちでごく少数の犠牲者が出てしまうのは仕方がないと許容されたとしても、生命の危機にさらされる犠牲者が無視しえないほど大量に、かつ恒常的にこのノージック的「最小国家」体制のもとで発生してしまうのであれば、そこにおいては「個人の権利の不可侵性」など絵に描いた餅である。このような場合には、「個人の権利の不可侵性」を守るためにも、「最小国家」の枠組みを踏み越えて、危険にさらされた人びとを救うための再分配的活動が容認、というより要請されることは直観的に明らかである。
しかしながら、「最小国家」体制がつねにこのような、いわば自己否定的な機能不全を起こすとは限らない。つまり「最小国家」が論理必然的に、自己の前提であるはずの「個人の権利の不可侵性」を、少なからぬ人びとの生存を危険にさらすことによって破壊してしまうとは言えない。そのような事態が生じるかどうかは、「最小国家」の置かれた状況によって異なるだろう。付言すると、ノージック自身は彼の「最小国家」構想のなかに、一種のナショナル・ミニマム、ある最低ラインの確保による生活保障を含めて考えている。これは「個人の権利の不可侵性」を守るためのものと観念されている。
第二に、新古典派経済学批判の延長上でのノージック批判については、これはという決定的な論点を絞り込んで提示することは難しい。新古典派批判自体、さまざまな立場から、さまざまな論点について行なわれているものだからである。ここでは、ケインズ主義、ならびにエコロジー派の立場からの批判について検討を加えることにしよう。マルクス主義にたいする――ことに労働価値説と搾取理論にたいする反論はノージック自身がその「拡張国家」批判のなかで念入りに行なっており、少なからぬマルクス主義者たちがその批判に真摯に対応しているので、検討を省略する。
ケインズ主義から展開しうる批判は結局、市場の不完全性というポイントに絞られうる。現実の経済においては、市場による需要と供給の調整のメカニズムは必ずしもつねに円滑に働くわけではない。商品の需給のギャップを反映して敏感に変化し、この変化を通じて商品取引の参加者に行動の指針を与え、市場を需給の均衡へと導くはずの価格というシグナルは、現実にはそれほど敏速に変化せず、それゆえ現実の取引においてはつねに、なにがしかの売れ残り、過剰な生産力、あるいは欠乏、満たされない需要が生じる。典型的には失業というかたちで、それは人びとを痛めつける。つまり、現実の市場は資源の有効利用を十分には行なってはいない。「結果の平等」「分配の公正」の政策目標としての意義を否定するノージックにとっても、個人の所有権の最大限の活用を市場メカニズムが必ずしも保障しないという問題は無視しえないはずである。
さて、このような市場の不完全性を盾にとってのノージック批判は成立するであろうか。結論から言えば、部分的な修正を要求するものではあっても、決定的な批判にはなりえない。まず第一に、ノージックの言う「最小国家」「枠」が満たすべき要件のうちに、可能なかぎり完全な、効率的な市場機構の実現を含めてしまう、という解決法がありうる。このときノージック本来の「最小国家」構想、実力行使の独占と最小限度の生存権保障への政府機能の限定は修正を施されることになるが、その基本精神――国家の権能の拡大よりは縮小、限定――を歪曲することにはならないはずである。
第二に、資源の有効活用が市場経済のもとでは妨げられるとはいう批判は、本質的に功利主義的なものであるから、先の反批判がここにも適用可能である。
エコロジー派からの批判のポイントは、人間の生きる世界、地球の有限性というポイントに尽きる。ユートピアの無限な実験を許すほどに地球環境のキャパシティーは大きくはないという。もちろんこれも論理的にはすりぬけることが可能である。例えば森村進が言うごとく、「ノージックはあらゆるタイプの共同体が同じ程度に繁栄しなければならないと考えてはいないし、われわれがそう考えるべき必要もない。」(森村進「訳者解説 『アナーキー・国家・ユートピア』のために」、ジョナサン・ウルフ『ノージック』森村進+森村たまき訳、勁草書房、
305頁)つまりこれもまた広い意味での功利主義的批判の一形態であって、ケース・バイ・ケースである。しかしながら、このキャパシティー問題の実践的克服は完全な市場システムの構築よりも困難であろう。
第三の歴史的批判、これにたいしてはもっと反論が容易である。「アメリカがメタ・ユートピアであったのは過去のことであり、現在はそうではない」という歴史的事実が、ユートピアないしメタ・ユートピアの建設と存続という課題の困難さを教えてくれることはたしかであるが、いわばその過去における挫折が、われわれにとっての現在そして未来におけるその構築の試みをあらかじめまったく無意味にしてしまうわけではない。また19世紀アメリカにおいて結局は挫折したユートピア的実験の数々が、その挫折ゆえにわれわれにとって無意味かと言えば、そうではない。クマールも言うように、この時代のユートピア的「共同体は、仕事や教育、家族関係、性的関係、芸術といった領域で、共同体自身が解体した後にも長く生命力を保った理念や実践を試したのである。」(クリシャン・クマール『ユートピアニズム』菊池理夫・有賀誠訳、昭和堂、
しかしながら、私はこのノージックのメタ・ユートピア論をまる呑みにするつもりはない。そこにはすでに触れてきた批判が指摘する以外にも重大な限界がある。しかも、これまで紹介してきた批判が基本的にはノージックの所論の一面性を突くもの、別の立場を示すもの、つまりは外在的なものであったのにたいして、私の批判はより内在的である。
ノージックの言う「枠」「メタ・ユートピア」は本当にユートピアたる資格を満たしているのだろうか?私の疑問は次の点にある。「メタ・ユートピア」なる概念の提出は明らかにユートピア論上のノージックの功績であるが、これは同時に、一つの後退と背中合わせなのではないか。かつての英米圏倫理学におけるメタ倫理学にはらまれたそれと同様の問題が、この「メタ・ユートピア」概念には潜在しているのではないか。ノージックの仕事の意義はまさにメタ倫理学から倫理学への下降にあったのだが、ユートピア論の構想にいたって彼は、かつてとは別のかたちでメタ理論への上昇、自己疎外を行なってしまっているのではないか。
例えて言うならば、こういうことである。ノージックのメタ・ユートピア、「枠」とはユートピア的実験コミュニティーたちの自由競争市場であるのだが、ノージックの口振りは、競争に参加し、勝ち抜いていこうとする企業家の立場よりは、むしろ競争を管理する公正取引委員会の立場を思い起こさせる。彼の描くメタ・ユートピアは結局消極的な意味での「枠」であって、その「枠」のなかに入るべき具体的な内容、多様なユートピア的実験の中味までを含んではいない。
「私が構成要素であるコミュニティーの具体的性格を何ら提起しなかったのは、それをすることが重要でないとか、相対的に重要性が低いとか、つまらないとか(と私が考えている)と言いたいからではない。どうしてそんなことがあり得ようか。我々は、具体的コミュニティーの中で生きるのである。ここでこそ、人の理想的社会または善き社会についての非帝国主義的見解が提起され実現されるべきなのである。我々にこれを許容してくれることが、枠の存在意義なのである。望ましい具体的性格をもつ具体的コミュニティーの創造へと駆り立て鼓舞するこのような様々のヴィジョンなしでは、枠は命を欠くことになろう。」(
おそらくノージック自身は、それは不可能ではなくとも不要であると考えている。そもそも、多様なユートピア的実験を一体何によって最もよく「駆り立て鼓舞すること」ができるのだろうか。「枠」のメタ・ユートピアを諸ユートピア的実験の自由競争市場と考えるならば、そこでの最大の競争への誘因はユートピアを求める人びとのニーズであるはずだ。もちろん人びとは一面ではユートピアの消費者であると同時に、他面ではユートピアの生産者でもある。そこで人びとのユートピアの受け手、消費者としての立場と、ユートピアの作り手、生産者としての立場との間に馴れ合いの妥協が生じてしまわないためには、ユートピアの供給サイドだけではなく、需要サイドにおいても自由競争が成立していればよい。ノージックの「枠」はこの要件は満たしてくれるだろう。
しかし、こう結論したとしても問題が解消したわけではない。「枠」は多様なユートピア的実験を「許容してくれる」のみならず、またユートピア的実験を「駆り立て鼓舞すること」をも「許容してくれる」。だが、このように「枠」の機能を考察していっても、では「駆り立て鼓舞すること」の主体が何であるのか、「駆り立て鼓舞すること」とはいったいどういうことであるのかはいっこうに明らかにならない。ノージックが論証しているのは、「枠」「最小国家」はその主体ではない、あるいはそうあるべきではないということであって、「駆り立て鼓舞すること」は「許容してくれること」に比して重要な問題ではないということではない。むしろそれこそが重大事であり、「枠」「最小国家」について、「許容してくれること」についての議論が、言わばその準備段階であることは先の引用にも明らかなとおり、ノージック自身も認めるところである。
先の引用でもう一度確認するならば、「駆り立て鼓舞する」の意味上の主語は「このような様々のヴィジョン」である。もちろんこれが「枠」を意味するわけはないが、単にユートピアの受け手、消費者であるところの人びとの立場のことでもない。むしろこれは逆に、ユートピアの作り手、生産者としての人びとの構想力のことである。つまりここで主語と目的語の指す対象が一致してしまっている。多様なユートピア的実験を「駆り立て鼓舞する」のは多様なユートピア的実験それ自体にほかならない。
われわれが知っている自由企業体制における競争の具体的様相を想起してみればよい。ことにメタ・ユートピア論を展開するに当たってのモデルとなるのは、同じ商品を誰が最も安く供給できるかという価格競争よりはむしろ、よりよい品質や新機軸商品の付加価値をめぐって行なわれる差別化競争のケースである。新製品開発競争において企業は漫然と顧客のニーズに応えていればよいわけではない。むしろそれを先取りすること、新機軸を提起して潜在的なニーズを掘り起こす、ないしはまったく新しいニーズを創出することこそが重要なのである。そしてその「新しさ」の基準は当然のことながら、それまでの自分、そして競争相手のやってきたことである。企業をイノヴェーションへと「駆り立て鼓舞する」のはライバル企業との競争に他ならない。
逆説的に聞こえるかもしれないが、市場が企業に先行しているのではない。反対に、競争関係にある複数の企業が存在して初めて、その関係性を指して「市場が存在する」とわれわれは語りうるのである。同様に、「ユートピアのための枠」が諸ユートピアに先行するのではない。さまざまなユートピア構想がある、という事実があって初めて、われわれはメタ・ユートピアを、「ユートピアのための枠」を語ることができるのである。現実に競争し合う企業のないところで独占禁止法を語っても虚しいように、複数のユートピア的実験が存在しないところで「ユートピアのための枠」を論じても意味がない。
つまるところ問題は、「多様な可能性」を語りうる視角(資格?)はいったいどこにあるのかということである。それは「多様な可能性」にたいするメタレベルにあるのか、そうではなくて、「多様な可能性」そのもののレベル、そのただなかにあるのか。「多様な可能性」を一望のもとに見わたし、そのなかからどれが最善かを選ぶ立場にあるのか、あるいは外側からは「多様な可能性」として一括されるものたちの一つひとつについて存在するはずの、それを具体的に造り上げていく立場にあるのか。やはりそれは第一義的には後者にあり、前者はその事後的な産物なのである。
メタ・ユートピアとしての「ユートピアのための枠」という概念の提出がノージックのユートピア論にたいする貢献であることは否定できない。しかしノージック自身は、そうした「ユートピアのための枠」のなかで、いかなるユートピアを欲し追求するのだろうか。『アナーキー・国家・ユートピア』の記述からは、その点が読み取りにくいのである。しかしこれを学問的禁欲、自己限定と看過するわけにはいかない。すでに考察してきたとおり、ノージックのメタ・ユートピアがそれ自体真にユートピアであるためには、「ユートピアのための枠」が設定されているのみならず、そのなかで多様なユートピア的実験が実際に行なわれていなければならないのだから。
ノージックのメタ・ユートピア論自体の成立の過程を忖度するならば、彼の言う「帝国主義的ユートピア主義」、つまり広い意味での全体主義、マルクス主義、また社会民主主義、アメリカ民主党的リベラリズムなどの福祉国家思想への批判が大きなモメントとなっているはずである。そうした「帝国主義的ユートピア主義」は、他のさまざまなユートピア主義を無視するのではなく、それらを否定するというかたちで、それらとの関係を取り結ぶ。人間の世界には他にさまざまな可能性があることを事実としては認めつつ、価値的にはそれらを否定する。しかもその否定を強引に現実化しようとする、つまりそれらの意義を否認するだけではなく、可能な場合には実力行使に訴えてでもそれらの選択肢自体を現実的に抹消しようとする。学生時代は左翼活動家だったという彼を転向させたのは、「帝国主義的ユートピア主義」のこうした息苦しさ、暴力性であったのだろう。
だが逆説的にも、ユートピアの多様な可能性にたいして真摯な態度をとっているのは、ノージックよりもむしろ「帝国主義的ユートピア主義者達」のほうである。実際には「帝国主義的ユートピア主義者達」は、自分たちの路線がさまざまな可能性の一つでしかないことを知るがゆえに、躍起になって他の可能性を否定しにかかるのである。これにたいしてノージックは、すべてのユートピアの可能性にたいするメタの立場に身を置こうとする。そのことによって、「他の可能性」ということ自体が無意味となるような、ある唯一絶対の立場を志向することに――おそらくは意に反して――なってしまっている。こうした立場を、マルクーゼの言葉を借りて「抑圧的寛容」と評することができよう。
もちろんノージックの立場にたいするメタレベルも存在する。それは彼の立場と「帝国主義的ユートピア主義」をともに同等の可能性として認める立場である。このようなメタの立場は言うまでもなく実践的、政治的には無意味であり、たしかにそこからはノージックはきちんと降りている。そのことによって「帝国主義的ユートピア主義」にたいしては否定というかたちで真摯に対応している。しかし、彼が許容する「実存的ユートピア主義」「伝道的ユートピア主義」にたいしてはどうだろうか? その内実にたいして彼はまったく関心を示していない。「枠」と「実存的ユートピア主義」「伝道的ユートピア主義」とが互いに「許容」し合うということまでは論証されていても、「駆り立て鼓舞」し合うとまでは論証されていない。
「許容してくれること」こそが、無関心こそが「ユートピアのための枠」の本領であることは認めるべきであろう。しかし、ではいかなるユートピア主義が「ユートピアのための枠」を求めるのだろうか。「帝国主義的ユートピア主義」であれ、「実存的ユートピア主義」「伝道的ユートピア主義」であれ、具体的なユートピア的実験の側は、けっして「枠」にたいして無関心ではありえない。さらに重要なのは、諸「ユートピア主義」間の関係の様態である。さまざまな「実存的ユートピア主義」「伝道的ユートピア主義」の試みは、相互否定という以外のかたちで、真摯な関係を取り結ぶことができるのか、それが可能だとしたらたとえばどのようなものなのか。だがこうした問題について、ノージックはまったく検討を加えていない。
今や問題は明らかであろう。ノージックは「メタ・ユートピア」「ユートピアのための枠」という魅力的な概念を提示して、「ユートピアとは人間の世界にとっての別の可能性のことである」という、よく知られた命題に新たな光を当てた。「可能性」が問題であるならば、それは本質的に単一ではなく、複数であるはずだ。この複数性、多様性、多元性をユートピアにとっての本質問題として提起したということの意義はどれほど強調しても足らない。しかし残念ながら、ノージックのユートピア論はこの複数性「についての」思想、複数性にたいするメタレベルの立場であって、複数性「を生きる」思想ではなかったのだ。
「ユートピアとは人間の世界にとっての別の可能性のことである」。しかしその「可能性」とはいったいどのようなレベルのものまでを含むのであろうか。現実に生きるわれわれにとって実現可能なレベルまでか、実現は不可能だが想像することは可能なレベルまでか、想像することもできないが、しかし、われわれにとって想像もできないようなものがかつて、あるいはいま現在、またあるいは未来において、どこかに存在するのかもしれないといういわば「信仰」のレベルまでを含むのか。だがいずれにせよ、その「可能性」とは純粋に論理的な可能性のことではないのだ。それは生きられるもの、実践されるもの、体験されるものなのである。論理に忠実に考察を進めたノージックの所論に欠けていたのはユートピアのこの側面である。
アニメであれマンガであれ『ナウシカ』のテクストに直接触れたことのある読者であれば、そこにおける世界の体験の豊かさを想起されるであろう。そこでは美しいものも醜いものも、圧倒的な迫力と尊厳をもってわれわれに迫ってくる。これをただ単に、美的なフィクションであり、ヴィジュアルな表現であるマンガ、アニメーションと、文字言語によるアカデミックな表現との違いであると言ってすますべきではない。アカデミックな哲学の伝統のなかでもまた、実存論、現象学などによって哲学なりの仕方で人間の体験の何たるかについての考察は延々と積み重ねられてきたからである。
そこで次節では、三角測量の第二ポイントとして、現代日本の一人の小説家によるユートピア的体験についての実存論的、現象学的考察を検討の主題とする。
笠井潔は主に推理小説、SFなどエンターテインメントの分野で活動しているフィクションの実作者であると同時に、いわゆる「マルクス葬送派」の論客として理論的著作をいくつかものしている評論家でもある。その理論的著作のなかに、端的に『ユートピアの冒険』(毎日新聞社)と題されたものがある。対話形式で書かれた啓蒙的小著だが、書かれた時点、1990年での彼の立場が直截に、明快に記されている。
『ユートピアの冒険』の大筋をなすのは、笠井の理論的主著である『テロルの現象学』(作品社、ちくま学芸文庫)、ならびに本格推理小説連作「矢吹駆」シリーズ(『バイバイ、エンジェル』『サマー・アポカリプス』『薔薇の女』、以上『天使/黙示/薔薇』作品社、所収、『哲学者の密室』光文社)で主に展開されている「観念批判論」、収容所群島や連合赤軍、クメール・ルージュなどを帰結してしまった、マルクス主義をその頂点とする近代の革命的テロリズムにたいする批判理論の平易な解説であるが、ここで目新しいのはそれが東欧革命以後、ブラック・マンデー以後の情勢分析と合わせて展開されていることである。笠井の主張は後述するとおり、「ユートピアはいま、ここにある」という点で一貫しているが、それが具体的な、彼を含めたわれわれ自身にとっての「いま、ここ」と明示的に関連付けられて提示されているのは本書のみである。
「もう十年前になるけど、ぼくはマルクス主義を批判することに、かなりしつこくこだわっていた。(中略)そのころ、現実の社会主義国家やマルクス主義の理論には問題があるにせよ、マルクスのテクストはテクストとして尊重されなければならないとか、こんなことをいう護教派がいたものだけれども、ぼくはそれには反対だった。世界からマルクス主義国家というようなグロテスクな存在が消滅しないかぎり、その根拠であるマルクスのテクストは政治的な批判をまぬがれえない。(中略)このまま事態が推移するなら、(中略)マルクス主義の「真理国家=収容所国家」というグロテスクな存在も歴史的に消滅する。(中略)そうなれば、マルクスのテクストをプラトンやニイチェとおなじように扱うということに、あえて反対する理由はない。」(『ユートピアの冒険』11〜12頁)
ここで「マルクス葬送派」とかつて呼ばれた立場――それはもちろん一枚岩の党派ではないが――の特徴について振り返っておこう。まずそれはハイエク的な新自由主義ではまったくない。ときに相応の敬意を払いこそすれ、ノージックの場合よりもそこからの距離は遠い。ノージックと新自由主義者を分けるものが「ユートピア」の概念への情熱であるのにたいして、「マルクス葬送派」の場合は「ユートピア」のみならず、「革命」の概念もまた捨て去られていない。彼らはマルクス主義を革命というテロル、悪の源とみなすのではなく、むしろテロルによる革命の算奪者とみなすのである。新自由主義が基本的に反革命思想であるのにたいして、「マルクス葬送派」は革命思想である。ここで、マルクス主義によって「奪われた革命」とは何であったのか、については論者により力点の置きどころが異なるが、共通して指摘されるのは、マルクス主義は革命の主体として「労働者階級」を、目指すべき未来として「共産主義」を指定するが、それらいずれもは実際には党派が自己投影した空虚な観念にすぎず、マルクス主義党派はこの「労働者階級」「共産主義」という「プロクルステスの寝台」のうえに現実の民衆とその運動を疎外していったという問題である。
となれば、マルクス主義の解体は最悪の革命の算奪者の退場を意味しはしても、革命という課題それ自体の消滅を意味することにはならない。社会主義に抗する革命としての東欧民主革命、あるいはイランのイスラム革命やフィリピン、中国などの民主化運動がその何より雄弁な証拠となる。問題は、ではそれはどのような革命であったのか、また当然にそれはわれわれ自身の革命ではなかったのだからそれはいったいわれわれ、先進資本主義国である日本に生きるわれわれにとってどんな意味があるのかである。
それらはいかなる革命であったのか。まず確かなことには、それらはいかなる意味においてもマルクス主義的な社会主義を目指す革命ではない。だが、それ以上の共通点をどの程度有しているだろうか。それらが抵抗し克服しようとした既成の秩序、それらが目指した未来のヴィジョンは、互いにあまりにも異なってはいないか。またそれらは、かつてマルクス主義に算奪された革命、初期社会主義や様々な民衆運動とどの程度まで地続きにあるのだろうか。
逆にわれわれ自身の側からも考察してみよう。先進資本主義国である日本に生きるわれわれにとって、選ぶべき未来はどこにあるのか。一応の自由と民主主義が確保された、高度に発達した消費社会のなかに生きるわれわれにとって、現在とその惰性的な延長線上に期待される未来以外に望ましいユートピアなどあるのか。あえて未来を賭けて何らかの革命に乗り出すべき理由などあるのか。東欧革命にせよアジアの民主化運動にせよ、そこではわれわれがすでに手にしているものが求められているにすぎないのではないか。フランシス・フクヤマの言うとおり、今はまさしく「歴史の終り」なのではないか。
「ユートピアは、無限の攪乱的な過程として、つまり冒険としてしか存在しないんだ。ユートピア社会の構想は、個人、家族、社会を貫く部分的かつ総体的な攪乱過程を活性化するためのヴィジョンとしてのみ、なんらかの意味を持つ。」(『ユートピアの冒険』
「美的・エロス的な経験は、それ自体が目的だとしかいえない、そのような経験としてあるはずだよ。であれば、革命がそうであって、なぜいけないんだろう。」(同上、
「制度という点では、大衆民主主義と修正資本主義よりも優れた制度を、人類はいまだ発明していないと思う。(中略)しかし、相対的に優れたシステムであろうとも、構造は原理的に抑圧的であらざるをえない。(中略)そして革命とは、(中略)どのように相対的に優れた構造においても存在せざるをえない不全性に、原理的に挑戦する試みなんだ。」(同上、
この主張はノージックとまさに対照をなしていることに注意しよう。ノージックのメタ・ユートピア論が欠いていたのはまさに「革命」の概念であった。おそらく、「革命」によるユートピアの実現、という方法は「帝国主義的ユートピア主義」にこそ相応しい、との理由でこの拒絶がなされたのであろうが、問題はそれで解決されたわけではないということはご了解いただけるだろう。そこに欠けていたのは、「革命」に限らず、人があるユートピアを選ぶ、という実践そのものが持つ意味の考察であった。「革命」自体はユートピア思想にとって常に不可欠のもであったわけではない。トマス・モアの『ユートピア』以来、ユートピア文学において一つのタイプをなしていたのは言うまでもなく旅行記である。ユートピア思想において本質的であるのは、「どこにもない場所」「どことも知れぬ場所」「こことは違う場所」「もう一つの可能性」としてのユートピアは、現にあるこの世界――より正確には、ユートピア主義者の現に生きる世界との対比においてこそ意味を持つということだ。そして「革命」や「旅」は言わば生きられる対比、対比の実践なのである。
すでに私が論じたノージック批判にたいする最も有力な反批判は、メタ・ユートピアの喜びの核心は、この「革命」と「旅」の喜びであるというものになろう。卑近な例で言えば、ショッピングの楽しみのうち最大のものは、ウインドウ・ショッピングのそれであるということだ。多様なユートピア的実験の内実を伴わねば、無規定な可能性としての「枠」は空虚な形式にすぎない、と先に私は論じた。具体的なユートピア的実験を生きることにこそ意味があるとはノージックも認めていた。しかし、無規定な、純粋な可能性そのものを経験するということも極限的にはありうるのだ。もちろんそれは、コミュニティーにおける日常生活のように定常的ではありえない。「革命」にも「旅」にも終わりがある。しかし永続しえないからといって、それが虚偽であるとは言えない。そもそもノージックのメタ・ユートピア論の最大の貢献の一つが、個々のユートピア的実験は、たとえ永続性、安定性を欠いていても、他のさまざまなユートピア構想にヒントを与え、励ますものであるがゆえに、生存能力をもってユートピアの優劣の第一の測定基準とすることを拒否したところにあるのだから。
ノージックのユートピア理論のなかに「経験」が入り込みうる通路があったのだ。「実存的ユートピア主義」という空虚なラベルも、この問題を踏まえればより豊かな含意を得ることができたはずである(「帝国主義的ユートピア主義」を自らのもの以外のすべての「革命」を禁じる思想としてのみならず、「旅」を禁じる思想として定義することもまた可能であろう)。そして笠井のユートピア論はこれとまったく対照的に、純粋な可能性そのものの経験としての「革命」を特権化するものである。しかし注意しておかねばならないのは、笠井もまた「旅」に言及することがほとんどないということだ。
笠井の場合「革命」と親和的なイメージで言及されるのは、祝祭である。人類学的な儀礼・祝祭研究の成果が援用されていることは言うまでもないが、その他にキリスト教など制度化した大宗教の公教にたいする秘教、神秘主義的伝統が重視されている。人間が有限な存在であること、とりわけ死を免れないこと、にもかかわらず/それゆえに無限や死の向こう側にあるものとの関係において、自らの世界のなかにあることの意味を考えずにいられないこと――こうした実存的な問題提起から出発し、笠井は広い意味での宗教、観念の歴史を辿っていく。発達した宗教、イデオロギーが自らのうちに無限を取りんだと僭称し、本当の意味で無限なるもの、先の私の言葉で言えば「しかしわれわれにとって想像もできないようなものがかつて、あるいはいま現在、またあるいは未来において、どこかに存在するのかもしれない」ということを抑圧し、忘却させるように機能して、人間の世界を秩序づけていく。しかしこうして抑圧されてきたものに迫ろうという営みは例えば神秘主義、異端信仰の形で受け継がれ、あるいは祝祭や民衆蜂起のなかにその爆発的な表現をみる。笠井によれば、近代における「革命」もまたこのようなできごとなのである。それゆえ彼によれば「革命」の核心は、あれこれの社会構想ではないし、また単に構想に止まらない、コミュニティー形成の実践、その体験でもない。強いて言えば、ある社会から別の社会への移行の瞬間に垣間みえる、純粋な可能性――ないし不可能性そのものの経験に他ならない。これを評して池田清彦は「線香花火」と形容した。
笠井の主張は特に独創的なものではないが、真摯に考えられたものであり、一考に値する。しかし気になるのは「旅」の不在である。笠井の主張には彼が忌避して止まないはずの本質論の匂いがしてしまう。ハイデガーなども踏まえたその実存論的考察は、ともすれば「革命」において一瞬垣間みえる純粋な可能性/不可能性の経験こそが真実の開示である、という風に読めてしまう。しかしその真実とは、笠井自身が強調しているように、言葉にできない、観念化できないもの、「われわれにとって想像もできないようなものがかつて、あるいはいま現在、またあるいは未来において、どこかに存在するのかもしれない」ことの露呈にほかならない。近年、柄谷行人が問題としている「外部」とつながる問題である。つまり「真実」と呼んだ瞬間に虚偽と化してしまうようなものだ。しかし笠井の論の運び方において、その「真実」は人間の内側に抑圧されているものの噴出のごとく説明されている。つまり「可能性」であるよりは一種の「必然性」として。常に一瞬で消えてしまうが、時が至れば繰り返し必ず到来するものとして。しかし本当にそれが「外部」であるのならば、そのような保証は本当はどこにもない。
笠井自身もこの問題は自覚しており、『ユートピアの冒険』でも、まさにこのような抑圧された「内部」の噴出の理論となっているドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』の検討に多くの頁が割かれているほか、まさに「外部」「他者」の問題に徹底的にこだわって思考している「レヴィナスの他者論を革命的に顛倒する」(
198頁)という展望が語られている。のみならず『哲学者の密室』ではこのレヴィナス哲学が正面から主題化されてもいる。しかし、なおそれは「お勉強」の域を出ていない。『ユートピアの冒険』の後半で笠井がやっていることは結局、ありがちな「行方不明の(革命)主体探し」なのだ。現代世界の情勢を分析し、どこに「革命」の火種があるか、を得々と語っているにすぎない。そこで語られている世界はまるでありふれたニュース解説を読むようで、「外部」の要望を決定的に欠いている。世界はまるごと一つのシステム、資本主義に呑み込まれてしまって、「外部」などどこにもなく、すべてはテレビのニュースに映し出されるというあの「ポスト・モダン」そのままである。社会主義が実態としても理念としても崩壊し、それに変わるものは現われていないこと、とりわけエロス的・美的次元において社会主義はまったく不毛に終わり、世界は資本主義的なポップカルチャーに染め抜かれてしまったことを笠井はむしろ嬉しげに語る。永井均の卓抜な表現を借るならば、「カール・ルイスよりも速く走れる(がそんなことには何の価値も認めない)男は存在しないであろう」(『〈魂〉に対する態度』勁草書房、137頁)世界について。「カール・ルイスよりも速く走れる(がそんなことには何の価値も認めない)男」が果たして存在しないかどうか、本当にはだれにも分かるはずがない。それが「外部」「可能性」ということである。しかしこのように語ることに毛ほどのリアリティーも感じられなくなった時代、それが「ポスト・モダン」の現代である。このように「出口なし」を駄目押ししながら、なお「革命」の展望を語るとき、結局笠井もまた「革命」を彼が批判してやまないはずのヘーゲル=マルクス主義的「内部」、「必然性」の枠のなかに封じ込めてしまうことになっている。しかしながらこのように具体的な「外部」への展望を欠くとき、笠井的な革命論は逆説的にも、明らかに著者自身の意図に反して、ずぶずぶの自己肯定、現状肯定の居直りの正当化の道具に使われてしまうだろうことは言うまでもない。
「旅」というアイディアの不足であろう。彼の「革命」は一瞬垣間みえる純粋な可能性/不可能性の経験に集約されすぎており、その一瞬を支える凡庸な日常性の持つ意味、「革命」の出発点と帰着点、「旅」の始まる地と終る地のもつ意味を第二義的なものへと貶めてしまっている。彼は常識的な革命論を、ユートピア構想、革命によって実現される社会の制度を重視して、ユートピア体験、彼の言う「革命」経験を第二義的なものへと貶めてしまうと批判するが、逆に彼はユートピア体験の意義を貶めている。しかし「旅」のメタファーによってユートピアを語るとき、つまり「旅」の始まりと終り、途中の道程、仮の宿を結ぶさまざまな土地――こうしたメタファーをもって語るとき、そのようなことは許されない。「旅」において人びとは、実に容易に、「外部」に、別の「可能性」に触れてしまうはずである。
「可能性」の問題を巡って始まった私の考察はかくして「旅」という言葉に辿りついた。次節からはいよいよマンガ『風の谷のナウシカ』の検討に乗り出す。マンガ『ナウシカ』にたいしてわれわれが驚嘆せねばならないのは、直接の素材を現実に仰ぐことのないがゆえに、「ポスト・モダン」の罠に最も落ち込みやすく、また現にほとんどの作品がそこに落ち込んでしまっているファンタジー、SFというジャンルのルールにそれが忠実にのっとりながら、なお巧妙かつ真摯に「外部」の問題と格闘しえているということである。お仕着せの虚構に遊ぶだけに終わって、結局、何の驚きももたらしえない現代のファンタジーへの批判として書かれたのであろうミヒャエル・エンデの『はてしない物語』(岩波書店)は、あるべきファンタジーを「行きて帰りし物語」、現実と虚構を往還してその双方に命を吹き込む「旅」として描き出したが、これにたいしてマンガ『ナウシカ』はこれからみるようにどこにも行き着くことのない「旅」の物語である。しかしながらマンガ『ナウシカ』はしょせんは教養主義的お説教小説でしかない『はてしない物語』などよりもはるかに徹底したファンタジー批判、「ポスト・モダン」批判の「旅」の物語となりえているのだ。(以下マンガ『ナウシカ』からの引用にあたっては、本稿執筆時点での単行本(第1〜6巻)収録分についてはその巻と頁、未収録分については雑誌『アニメージュ』の掲載号と頁をそれぞれ記す。)
アニメ『ナウシカ』のストーリーは、原作たるマンガ『ナウシカ』冒頭4分の1程までのストーリーを強引にはしょってまとめ上げたようなものであって、マンガ『ナウシカ』においてははるかに雄大なスケールと、複雑なプロットの物語が展開されている。しかしながら、いったんできあがってしまった作品としてのアニメ『ナウシカ』の重力はなまなかなものではなく、マンガ『ナウシカ』の物語もその最後のクライマックス直前、単行本で言えば第6巻の半ばあたりまでは、おおむねアニメ『ナウシカ』のそれの反復になってしまっている。
アニメ『ナウシカ』は世界の破滅と再生、救済の物語であった。人間が汚し、その結果人間の生存さえ困難なものとなり果てた世界、その困難の象徴たる、奇怪な有毒の生態系「腐海」――。そのなかで人間たちは力を合わせて困難に立ち向かうどころか、相も変わらず戦争を繰り返している。かつて世界を破壊した最終戦争「火の七日間」の超兵器巨神兵を「腐海を焼き払い、人間の世界を取り戻すため」との言い訳のもとに復活させ、あるいは「腐海」それ自体を生物兵器として利用し、という愚行の応酬に主人公ナウシカは、「腐海」こそが人間の技術文明の生み出した汚染物質を還元、無害化して世界を浄化しているという真実の告知者として、人間相互の、そして人間と自然生態系との戦争を終わらせる調停者として対峙する。
マンガ『ナウシカ』の物語も、単行本第6巻収録分まで、その最後のクライマックスの直前までは大体アニメ『ナウシカ』と同様のモチーフに導かれて展開している。どちらにおいても、「腐海」の真実の発見者ナウシカは、その真実の発見ゆえにただちに救われるわけではなく、その発見にもかかわらず、というよりもその発見のゆえにこそ深く傷つき絶望する。真実を知ったところでもう遅すぎるという絶望――「腐海」の世界浄化の営みを見抜けなかった人間たちは、その浄化の恩恵にあずかることはできず、むしろ「汚れそのもの」として滅ぼされるしかない、という絶望が彼女を打ちのめし、自死へと駆り立てる。しかし、彼女は「腐海」の主とも言うべき王蟲に救われ、その祝福を受けて蘇り、「失われた大地との絆を結ぶ」伝説の救世主、「青き衣の者」としてこの世に帰還する。
ところが、アニメ『ナウシカ』の物語はここで大団円を迎えるのにたいして、マンガ『ナウシカ』の物語はこのナウシカの帰還以降、ことに巨神兵、アニメ『ナウシカ』では世界を滅ぼした怪物、あたかも旧世界の高度技術文明の邪悪と愚かさの化身であった巨神兵の再登場をきっかけとして急転直下、それまでの物語すべてを覆すかのごとき驚くべき展開を示す。周知のごとくアニメ『ナウシカ』では巨神兵はクライマックスにおいて早産の状態で登場し、怒って「風の谷」へと殺到する王蟲の群と対決するが、技術文明の浅薄さを象徴するかのごとくあっさりと腐れ落ち、自滅してしまう。しかしマンガ『ナウシカ』では巨神兵は、これ以上の戦争の継続をくいとめようと帰還したナウシカ、そのために邪悪な兵器たる自分を胎児のうちに葬ろうとしたナウシカの前で人工子宮から生まれ出て、こともあろうに彼女を「ママ」と呼ぶ。ナウシカも彼(?)を自分の子と認め、「オーマ」と名付け、彼を伴って土鬼帝国の聖都シュワの「墓所」、「腐海」を生物兵器として利用することを可能とした旧世界の邪悪な技術の貯蔵庫を封印するために旅立つ。このナウシカ最後の旅こそ、マンガ『ナウシカ』の物語が書かれざるを得なかった真の理由を明らかにしているのだ。
しかしながら、すべてが巨神兵の再登場とともに明らかになったという言い方は必ずしも正確ではない。伏線はすでにいくつか張られていた。この点につき、アニメとマンガの対比をも踏まえた上で若干考察しておかねばならない。
まず目立つところでは、「腐海」焼却計画の有無である。マンガ『ナウシカ』にはそもそもそういった計画自体が存在せず、緩やかにしかし止めようもなく拡大を続ける「腐海」の存在感は圧倒的かつ絶対的である。アニメ『ナウシカ』では「海から吹く風様に守られておる」ユートピアのごとく描かれた「風の谷」にも、他の土地と同じように「腐海」の毒は静かに浸透し、出生率は低下し、人口は減り続けている。巨神兵の発掘と復活も、「腐海」焼却計画などとは何の関係もない。アニメ『ナウシカ』では巨神兵は兵器としてのみならず、「腐海」焼却計画の切り札としてもトルメキア王国と都市国家ペジテとの間で争奪の的となるのだが、マンガ『ナウシカ』ではうっかり復活されかけたものの、その兵器としての利用を恐れたペジテによって封印されようとした巨神兵をトルメキアが奪う、と設定されていた。しかし巨神兵の運命はさらに変転し、トルメキアからその交戦相手である土鬼の手に落ち、再生が試みられるが制御装置(?)たる「秘石」の紛失ゆえにそれもままならず、結局、終盤で「秘石」を手にしたナウシカと出会うまでは物語の前面に登場してこない。
しかし、何より重要であるのは、「腐海」焼却計画自体の不在のために、ナウシカが手にした「腐海」の真実もそれ自体では世界を救うメッセージなどにはならないということである。「腐海」には守られる必要などない。またこの真実自体、ナウシカの独占物ではなく、彼女の師である放浪の学者剣士ユパも独力でほぼ同様の結論に達しているほか、一族ぐるみでその真実を実践している「森の人」(後述)の存在がある。そしてナウシカの探求の旅においても、この真実の発見は終点であるどころか出発点にしかすぎない。「腐海」が世界を浄化しているとして、その人間にとっての意味、あるいは「腐海」にとっての人間の存在の意味はいったい何なのか、また現在進行中の戦争における「腐海」の軍事利用はいかなる意味を持つのか、を解明すべく、ナウシカは長い旅に出発する。
第二に、「腐海」をめぐる葛藤に代わって物語の前面に出てくるのは戦争そのものである。アニメ『ナウシカ』ではナウシカの「風の谷」はあたかも平和な別天地であり、トルメキアとペジテの戦争に非当事者、一方的な被害者として巻き込まれるかたちとなっているが、マンガ『ナウシカ』では「風の谷」は辺境(「エフタル」という名が与えられている)の他のいくつかの氏族国家とともにトルメキアの衛星国家群を形成し、軍役と引き換えに自治権を保障される、という封建的盟約のもとにある。そしてトルメキアの対土鬼戦争「トルメキア戦役」の開始とともに、ナウシカは老いて「腐海」の毒に冒された族長たる父ジルに代わり、盟約にしたがって従軍するのである。つまりナウシカも「風の谷」も戦争の当事者にほかならない。アニメ『ナウシカ』ではナウシカには「腐海」の真実のみならず、「風の谷」への不当な侵略に抵抗するという正義があったが、マンガ『ナウシカ』ではそう単純ではない。彼女は戦争の背後で進行している事態の真相、土鬼が「腐海」を兵器として利用できた理由、そして王蟲たちが南、土鬼の地へと大移動を展開している理由を探るために土鬼の地へと赴かねばならないのだが、そのためにもトルメキア軍に従軍することを止めるわけにはいかなくなる。のちに彼女が戦線を一人離れえたのも、勇敢に戦ってトルメキア将兵の信頼を得たからだとさえ言える。たとえその戦場で、彼女が敵味方双方の犠牲を最小限にくいとめるべく努力したとしても。そのことへの自覚は、ついに始まった「大海嘯」(後述)のなか、取り残された土鬼の民衆を助けようと奔走する最中にも彼女を苛む。
第三に、「大海嘯」の問題がある。「大海嘯」とはこの場合「腐海」の「海嘯」であり、怒った蟲の群の暴走とともに「腐海」が爆発的に拡大することである。かつてエフタルの地に栄えた古い王国を滅ぼしたのも、王蟲狩りに怒った蟲の群による「大海嘯」であった。その記憶はエフタル地方だけのものではなく、マンガ『ナウシカ』において「青き衣の者」の伝承を継ぐ地である土鬼においても、現帝国を樹立した神聖皇帝の到来以前の土着宗教の終末信仰として語り継がれている。「腐海」の軍事利用にたいしてナウシカが危惧したのがこの「大海嘯」の到来であり、結局その危惧は現実のものとなってしまうのだが、その意味づけがアニメとマンガとでは、またマンガ『ナウシカ』でも物語の展開のなかで、微妙に、しかし、はっきりと異なっているのだ。
アニメ『ナウシカ』でペジテ残党によって「風の谷」に誘導された怒れる王蟲の群の襲来は小型の「大海嘯」であり、それ自体、本格的な「大海嘯」の先触れとならないとも限らないものだが、結局のところ本格的な破局を引き起こす前にナウシカの献身によって防がれる。つまりそれは起こしてはならないもの、「火の七日間」に匹敵する災厄、言わば「世界の終り」としてとらえられている。これにたいしマンガ『ナウシカ』では「大海嘯」は土鬼の生物兵器たる粘菌の突然変異体の暴走の結果として現実化し、土鬼の地の大半をのみこんでしまうのだが、それだけのことである。それは「腐海」を中心とする生態系の許容範囲内にある。当初はナウシカも王蟲の移動の理由を愚かな人間の作ったこの粘菌との対決と誤解するが、そうではなく、粘菌と食い合うことによってそれを正常な「腐海」の生態系のなかに取り込み、仲間にしてしまうためだったのである。
結局「大海嘯」はいわば普通の「破局」であって、「滅び」「終末」ではない。それを「終末」とするのは人間の側の勝手な意味づけ以上のものではない。またそれはどうやら人間の側の「腐海」への愚かな干渉によって起きるものであるらしい。そのかぎりで「大海嘯」は人間にとっては自業自得であり、それが究極的には「滅び」に導いたとしても、そうした干渉は「腐海」の正常な機能を歪めるというよりはむしろそれを加速する程度のことである。
ではいったいなぜ「大海嘯」を前にしたナウシカは、自死するほどの絶望に追いやられるのか? 一つにはもちろん、その中で多くの人びと、無辜の民が死んでいくからである。しかし、それだけではない。「腐海」の正常な機能としての「大海嘯」のなかで苦しみ、死んでいくのは人間たちだけではない。「腐海」の生き物たち、王蟲やその他多くの蟲たちが、ほかならぬ人間の愚かさのゆえに、それを償うために死んでいくのである。「腐海」はその死骸を苗床として広がる。ナウシカは人びとの苦しみと死のみならず、「腐海」というシステムの単なる構成要素ではない、かけがえのない個としての蟲たちの苦しみと死に深く傷つき、それゆえにこそ蟲たちと運命をともにしようとするのだ。そしてまた彼女は一人で、まったくの自力でこの世に戻ってくるのではない。死ぬ前に彼女を自らの漿液で包み「腐海」の毒から守った王蟲、死の淵の虚無の前で眠る彼女に呼び掛ける「森の人」セルム、その他多くのこの世に生きて彼女を愛する者たちの存在ゆえに再び目覚めるのである。蘇った彼女が「私と一緒に森へ来てくれませんか」と誘うセルムに応えて言うごとく、「でもあなたは生命の流れの中に身をおいておられます 私はひとつひとつの生命とかかわってしまう…」のである(第6巻、97頁)。
第四に、マンガ『ナウシカ』にしか登場しない「蟲使い」ととりわけ「森の人」の存在の意味を考慮にいれねばならない。彼らは「腐海」に住む者たちである。「蟲使い」が「賤民」、「腐海」の特産品や一部の蟲を扱う特殊技能ゆえに、外界の民によって便利に使われつつも(土鬼の生物兵器も彼らの技能を利用している)、汚れた民として忌み嫌われ、差別されているのにたいし、「森の人」は「選民」であり、通常外界と交わることはなく、その存在自体、「蟲使い」以外にはほとんど知られていない。「蟲使い」の起源ははっきりしないが、「森の人」は「蟲使いの祖にして最も高貴な血の一族」と呼ばれており、彼ら自身の語るところでは古エフタル王国の「大海嘯」による崩壊の際に、「青き衣の者」に率いられて「腐海」に入り、そこで生きることを選んだ者たちの末裔である。彼らは「火を捨て 人界をきらい 腐海の奥深く棲まう者 蟲の腸をまとい 卵を食し 体液を泡として住まう……」(第3巻、86頁)、つまり「腐海」を敵とせず、大地を汚さずに生きる者たち、「腐海」の生態系を熟知し、そして当然に、ユパやナウシカが気づいた真実を初めから知っていた者たちである。また外界と交わって生きる「蟲使い」が被差別者としての分限意識に甘んじる迷信深い民であるのにたいし、逆説的にも外界との交渉を断っている「森の人」のほうは、特殊な宗教的達人倫理のもとにあるとはいえ、本質的にはこの世界で最も啓蒙された文明人である。
彼らの存在はかの「腐海」の真実の意味に微妙な屈折をもたらす。一面では「森の人」はナウシカの真実が正しく「真実」なることの告知者であり、彼らのみの秘密、「腐海」の浄化過程の終点である、かつての生態系が復活した「青き清浄の地」が「腐海」最深部にすでに実在することを、ナウシカに教える。この啓示によって、絶望の淵にあったナウシカは再び力を取り戻す。この点では「森の人」はアニメ『ナウシカ』において王蟲が果たしていた役割、調停者ナウシカを認め祝福する「腐海」の代表者という相貌を帯びる。また「腐海」のただなかで生きる彼らの文化は、人間にも「大地を傷つけ 奪いとり 汚し 焼きつくすだけ」ではない生き方が可能であることを実証している。彼らの存在によって「腐海」の真実は世界を救済する啓示としてのリアリティーを獲得するように見える。
しかし、これはあくまでもことの一面にしかすぎない。他面では「森の人」の生き方はあまりにも超絶的な達人倫理であり、「腐海」の生態学的許容量からしても、すべての人間が彼らと同じように生きることは現実的には不可能であろう。「森の人」はしょせんは少数の「選民」であり、「腐海」のなかでの人間の生のありかたとしてはむしろ「蟲使い」のそれのほうが正常なのである。そしてどうやっても「腐海」のなかでは生きられない人間のほうがさらに多数なのであろう。それを知るがゆえに、そしてそうした人間の弱さを否認、断罪できないがゆえに、ナウシカは「森の人」セルムの誘いを拒み、「人間の汚したたそがれの世界でわたしは生きていきます」(第6巻、98頁)と静かに、しかし、力強く語るのである。「腐海」の真実は確かにナウシカ個人にとっては救済であったが、人間の世界全体にとっては必ずしもそうではない。「森の人」の存在は逆説的にも、こうした事情をも示しているのである。
以上を念頭に置きつつ、マンガ『ナウシカ』におけるナウシカの最後の旅の意味するところをあらためて検討していこう。
最後の旅、シュワへの旅に先立ってナウシカは言わば「煉獄行」とも言うべき旅を経験する。このエピソードは物語構成上はアニメ『ナウシカ』のあの印象的なクライマックス、ペジテの罠によって「風の谷」に殺到する王蟲の群の前でのナウシカの捨身と再生のそれに対応するものである。しかし、アニメ『ナウシカ』ではほぼ一瞬のうちに成されるこのナウシカの「復活」は、このマンガ『ナウシカ』ではより困難な「旅」となっている。
この煉獄行はトルメキアの戦列を離れ、粘菌の暴走に蹂躙される土鬼の地で、当初の目的である蟲たちの大移動の真相の究明に本格的に乗り出すところから始まる。ここで二つの出会いが彼女を追い込む。まず彼女は砂漠の中のとあるオアシスの古さびたお堂で、神聖皇帝によって邪教として退けられた土鬼の土着宗教の上人と少年チクク(神聖皇帝に滅ぼされた土鬼の土王の末裔らしい)に出会う。ここで上人はナウシカに、土鬼の聖都シュワに、旧世界の技術を封印した「墓所」があり、神聖皇帝はその封印を解いて旧世界の技術を戦争に利用していること、また土鬼の古い教えによれば、現在進行中の破局は世界浄化の過程に他ならないということを告げる。
自らの信仰と衝突するであろうナウシカの思想と行動を、肯定するでも否定するでもなく、ただその到来を静かに喜び、祝福する上人の所作はこの後の物語の展開を見るとききわめて暗示的であるが、とりあえずこの出会いはナウシカの胸に深い疑惑を沈めることになる。自分でも抱いていた不安が、ここではっきりと他人の口から明言されたわけであるから。
この後、彼女はチクク、そして国土を荒廃させる粘菌の使用に疑問を抱くようになった土鬼僧会軍の高官チヤルカとともに粘菌の追跡と、逃げ遅れた民衆の救助に奔走するが、そのなかでついに先述のごとき大移動の真相に辿りつき、絶望のなかで王蟲とともに「森になろう」(第5巻、147頁)とする。彼女の生命は王蟲の漿液に包まれることで守られるのだが、精神は虚無の淵に沈み、「森の人」セルムの呼び掛けによって覚醒、セルムによって「森の人」の秘密、「青き清浄の地」の実在を知らされることによって再び生きる気力を取り戻す。
それにしてもなぜナウシカはこの「青き清浄の地」を見いだすことによって力を取り戻すのだろうか? これはあまりにも自明であるがゆえにこそ、かえって看過されやすい問題である。しかし、考えてみれば、ナウシカの自死にいたる絶望が、「腐海」が世界を浄化しているという仮説への確信によってもたらされたのにたいし、その仮説の実証によってこの絶望が癒されるとは一見したところ逆説的である。
「青き清浄の地」の実在は、ナウシカやユパの仮説の実証にほかならない。知に携わる者としてのナウシカにとってそれが大きな喜びであることは否定しようがない。だがそれでも、その実証が、当面人間社会の抱える困難に何の解決も与えないことは明らかである。現時点において「青き清浄の地」は「腐海」最深部、最も古く「腐海」のできた場所にほんのわずか生まれたのみであり、地球全土が浄化されるためにはさらに何千年かの歳月が必要であることは言うまでもない。そしてナウシカはこう結論する。
「もどろうね 自分達の世界へ この世界を汚しちゃいけないから…… 土の毒や瘴気におびやかされないで みんなとここに住めたら どんなにいいだろう でも今の人間が知ったら また 自分達が世界の主人だと思いはじめる たちまち 生まれたばかりのひよわなこの土地を食べつくして また同じことのくりかえし 一〇〇〇年かもっとたって あなたがもっと広く強くなっていて 私達が亡びずにもう少しかしこくなっていたら その時こそあなたの元へやって来ます」(第6巻、93-94頁)
なぜかの仮説への確信がナウシカを死にいたる絶望へと追いやったのか、復習してみよう。それは「ひとつひとつの生命とかかわってしまう」彼女の資質ゆえのことであった。彼女にとって大切なもの、愛の対象は「生命の流れ」ではなく「ひとつひとつの生命」であり、「世界」ではなく「世界」のなかにある諸々のものたちであり、さらに言えば「存在すること」ではなく「存在するもの」なのである。「腐海」が世界を浄化しており、結果としては清浄な大地が復活するのだとしても、ナウシカにとって重要なのはそうした未来の救済ではなく、いま現在を生きるものたちである。
かの仮説への確信は、それがいかに確からしいものであったとしても「確信」にとどまるかぎりは、「青き清浄の地」もまた単なる「可能性」、あるいは「未来」でしかない。それは現実存在ではない。それは、けっして大切なもの、愛の対象にはなりえない。正確に言えばそれは「もの」でさえない。しかし、「青き清浄の地」がいま現に実在する「もの」であるならば、それを愛すること、大切に思うことは可能である。
ナウシカにとってかの仮説への確信は、彼女の大切なもの、愛するものの現実の存在が脅かされることと表裏をなしていた。大切なもの、愛するものが死んでいくこと、その姿を見失ってしまったことが、ナウシカを絶望へと追いやったのである。しかし、彼女は実在する「青き清浄の地」と出会うことによって、愛するものの姿を見出だす力を取り戻したのである。
煉獄行から帰還したナウシカの最初の仕事は、戦争を終結させる調停者としてのそれである。「大海嘯」の発生によって土鬼は国土の三分の二を喪失し、侵攻したトルメキア軍も壊滅する。その混乱のなかで土鬼宮廷ではクーデターが勃発し、超能力をもって権勢をふるった皇弟は暗殺され、組み敷かれていた皇兄が実権を握り、トルメキアに侵攻する計画が立てられる。ナウシカは出撃の準備、そして旧勢力=皇弟側の僧官たちの粛正が行なわれている現場に、皇弟の腹心として今まさに処刑されようとしているチヤルカを救うべく急行する。そして彼女はそこに集結した土鬼の難民たちに呼び掛ける。
「神聖皇帝は巨神兵と共にみなさんを率きつれてトルメキアへ移住しようとしています それしかみなさんの生き残る道はないと…… でも間違ってます その道の先には憎悪と復讐のくり返ししかありません 憎悪と復讐は何も生み出さない 憎しみが世界をこんな風にしてしまったんです 土鬼の地がすべて失われたわけではありません 腐海のほとりに移りそこで生きましょう 腐海は私達の業苦です でも敵ではありません 苦しみを分かちあって生きる方法を私の一族は知っています みなさんに教えられます 憎しみより友愛を 王蟲の心を……」(第6巻、137-138頁)
この演説はナウシカが土鬼語をよく解さないがゆえに、チククのテレパシー通訳を介してなされたものであり、聴衆には言葉によるメッセージと同時に視覚イメージも伝達されている。そこで伝えられるイメージはかつて最終戦争の「火の七日間」における巨神兵の姿であり、そして「王蟲の心」の具象化ともいうべき「青き清浄の地」である。その説得力は圧倒的であり、民衆の心を一気につかむことに成功する。
ナウシカがここで行なっているのはあくまでも説得、啓蒙であって約束や強制ではない。彼女が提示する「青き清浄の地」のイメージも美しい夢、打ち立てられるべき友愛の絆の象徴であって、来るべき楽園の約束ではない。彼女が提起する現実的な選択肢は、「腐海」のほとりでの業苦の生である。興味深いことに、「森の人」セルムもまたある機会に「青き人は救ってはくれないのだよ ただ道を指し示すだけさ」(第4巻、29頁)と語っている。
しかし、追い詰められた土鬼の民衆がそう受けとったとは限らない。むしろ彼らはナウシカに救世主を見ている。そして実のところナウシカに救世主を見ているのは土鬼の民衆だけではない。われわれ読者にとってもここでのナウシカはまさにメシア、世界に幸福な、理に適った終りをもたらす者、物語を大団円に導く主役である。舞台は整った。役者も揃った。頭上にはシュワの「墓所」から巨神兵を乗せてきた飛行艇も舞っている。後は巨神兵を倒して皇兄の野望を挫けば大団円、と錯覚してしまいがちである。しかしながら、先述のとおり、物語はこの後急転回を迎える。巨神兵はどうやっても倒すことができず、ナウシカの攻撃はかえって、制御不能の彼を封じていた人工子宮を破壊し、彼を目覚めさせることになってしまう。しかし、蘇った彼は、ナウシカの持っていた「秘石」に反応して意識を生じ、刷り込み現象を起こしてナウシカを母親と思い込んで庇護と指示を求める。そしてナウシカは、ただ彼のみをともなってシュワへと、「墓所」を封印するために赴くことになる。
よく考えればこの展開は当然のことである。「墓所」なるものの存在はすでに上人によってナウシカに知らされているのであり、またこれに先立って、戦線の崩壊に業を煮やしたトルメキアのヴ王自らの、「墓所」を目指しての出陣のエピソードが提示されている。「墓所」への到達なくしては物語は完結しえない。しかし、その当たり前のことを忘れさせてしまうほどに、このクライマックスでのカタルシスは大きい。だからストーリーテリング上、巨神兵の自我の覚醒はこのカタルシスを破って物語を先に進めるために不可欠の展開となっている。つまり、「墓所」の始末は単なる事後処理ではない、ということだ。
ここからマンガ『ナウシカ』ははっきりと、アニメ『ナウシカ』の反復であることをやめる。自然との契約と社会契約の二重映しのなかで大団円を迎えるのではなく、新たな方向へと物語は進み始める。鍵となっているのは言うまでもなく巨神兵である。
まず単純に考えて、次のような疑問が浮かび上がる。ナウシカは旧世界の邪悪な技術の貯蔵庫である「墓所」の封印に向かうのだが、そこで彼女は巨神兵を利用しようとしている。しかし、巨神兵もまた旧世界の邪悪な技術の落とし子ではないのか。「毒を以て毒を制す」やり方は「憎悪と復讐のくり返し」と選ぶところがないのではないか。
しかし、ここまでの展開をていねいに読み返してみれば、もっと重大な疑念がわいてくる。やはり「墓所」の技術の産物である粘菌でさえ「腐海」の蟲たちにとっては仲間だった。すでにこのように「大海嘯」の真相が判明した時点で、人間を「汚れそのもの」とみなす図式、あるいは人間の世界と「森」を、自然生態系を機械的に対立させる発想は失効しているのである。まず第一に、「腐海」の生態系は粘菌をも取り込み、安定化させうるほどに強靭で寛容であった。しかしながら、第二に、「腐海」の蟲たちが粘菌を食うために大移動を起こした動機は、「腐海」の生態系の機能を遂行するためではない。粘菌の苦悩、実験室のなかで生まれ、異質な環境に放り込まれて怯えて暴走していた粘菌を救うためだったのである。ナウシカがこれを理解しえたのもまた、彼女に粘菌の、そして蟲たちの苦悩を聞き取ることができたからにほかならない。生まれたての巨神兵もまた、不安に怯え、ナウシカに母を求めた。ナウシカ自身においても、巨神兵を兵器として利用しようという計算よりも先に、まずこの巨神兵の苦悩への反応が先行している。
純粋に機能主義的に考えても、「腐海」の生態系に粘菌をも取り込むキャパシティーがあったことからもわかるように、もし何かを「自然」と呼びうるとしたらそれは人間以外のものたち、人間の世界の外側の生態系、いわゆる自然環境のことではなく、人間の世界をもまるごと包括した世界全体のことになってしまう。上人の信仰が説得力を持つのもこれゆえである。重要なことは何が「清浄」で何が「汚れ」であるのかを識別することではなく、何が苦悩しうる存在か、その声を聞き取ることができるかであり、そうだとすれば王蟲が、またほかならぬナウシカ自身がそうであるように、粘菌も、そして巨神兵も苦悩を知る偉大な存在でありうるのだ。
しかし、このことを理解すれば、「汚れ」をはらうこと、あるいは自然と人間とを和解させることよりもさらに困難な課題が浮上してくる。ナウシカは「墓所」への途上でそれに直面することになる。
「墓所」への旅の途中で、ナウシカは偶然に、(旧世界の?)都市の廃墟に巧妙に隠された奇妙な田園に遭遇する。この「庭」には「火の七日間」以前の農作物、家畜が生きており、旧世界の文学と芸術が大量に保存されていた。ここで彼女はついにその探究の最終的な結論、世界の成り立ちについての酷薄な真実に直面することになる。
「腐海」中心部の「青き清浄の地」の存在は「森の人」とナウシカのみが知ることであり、かつ「森の人」はその知識をタブーとして厳格に秘している。それは単に「青き清浄の地」を守るためだけにではなかった。「青き清浄の地」に送られた「森の人」の先遣隊はすべて、そこで「心を吐いて死んだ」(93年10月号、231頁)。「青き清浄の地」の環境、「火の七日間」以前の大気、水土、生態系に現在の人間は適応できない。現在の人間は汚染された大地に適応した存在なのである。
この残酷な真実の告知は「庭」の不死の番人、神聖皇兄の操る、「墓所」の技術の産物である人造兵士ヒドラと同種の人工生命体の仕掛けた罠である。彼(ないし彼女)は「庭」に迷い込んだ人間をこのように相手の心の隙を突くことによって籠落し、「業が業を生み 悲しみが悲しみを作る輪」(93年9月号、226頁)から解脱させ、時を超えたこの「庭」の園丁としての幸福を与えてきた。そのなかには「森の人」も少なからず混じっている。かつてこの平安に満足せず、外界の人間たちを救いたいと念じて脱出した「そなた(ナウシカ)によく似た少年」(同上、224頁)もいたが、「墓所」に到達して初代神聖皇帝となった彼はほどなく「輪」のなかに呑まれてしまった。
しかし、ナウシカは、「森の人」セルムのテレパシーによる救援もあって、番人の誘惑に屈することなく、逆にそれをヒントとして番人も秘して語らず、「森の人」も知らなかった真相に自らの力で到達する。
そもそも物語の現在は「火の七日間」から数えてまだ一〇〇〇年ほどしかたっていない。このような短期間での人間の体質変化は、生物進化の自然なスピードからは説明がつかない。もちろんこのことは「腐海」を含めた全生態系について言える。さらに「火の七日間」以前の地球システムを復元したあとは自ら滅びるよう定められている「腐海」の機能自体、進化論的に考えてきわめて不合理である。つまり真相はこうである。
ナウシカ「火の七日間の前後 世界の汚染がとり返しのつかぬ状態になった時 人間や他の生物をつくり変えた者達がいた 同じ方法で 世界そのものも再生しようとした……」
こうなると「青き衣の者」の伝説自体、計画の共犯者、というよりその一部と考えざるをえないことになる。浄化までの長い長い時間、浄化の恩恵に結局はあずかることのできない人びとに仮初の救済を与え、浄化への希望を保ち続けさせるという機能を担った、マルクス流に言うアヘンとしての宗教。
この結論にたいして「あなたの考えは 私達の一族を根底からゆるがします」と不信を呈するセルムに、ナウシカはこう答える。
「どんな方法で生まれようと生命は同じです おそらくヒドラでさえ…… 精神の偉大さは苦悩の深さによって決まるんです 粘菌の変異体にさえ心があります 生命はどんなに小さくとも外なる宇宙を内なる宇宙に持つのです」(同上、236頁)
すでに論じてきたナウシカの生き方、基本姿勢がここでついに明確に自覚化、言語化されている。ここに至ってついにアニメ『ナウシカ』の物語の重力は最終的に断ち切られる。すでに検討してきたさまざまな伏線が示すような違和を微妙にはらみながらも、「青き衣の者」の伝説の成就に向けて収斂してきた物語が音を立てて解体する。代わってナウシカは物語の破壊者、伝説を拒否する者の相貌を帯びる。
ただし「物語を破壊するという物語」が、それ自体、立派に一個の「物語」として流通してしまうのが「ポストモダン」状況であるということは、前節での笠井の所論の検討を踏まえれば明らかだろう。それに「青き衣の者」の伝説を仕掛けた者、人間を含めた生態系を大きく作り替え、それら改造された生態系、あまたの世代に渡ってそこに生きるものすべてを(あくまでも自分たちにとって)本来あるべき地球システムを取り戻すための手段となした旧世界のエコ・テクノクラートたち(まさに「帝国主義的ユートピア主義者達」!)を批判し拒否するだけなら、ノージックの正義論でこと足りる。本稿の関心からすれば問題は、ナウシカが、つまりは宮崎が出した答えが、笠井やノージックの思想の射程を超えるものであるかどうか、巨大な「帝国主義的ユートピア主義」によって、およそいかなるユートピア構想を紡ぐ力も失った人びとのなかに、自閉的な居直りではない、新たな構想力を再び呼び覚ますことができるのかどうかである。
ここで巨神兵とそしてもう一人の人工生命、「庭」の番人の存在の意味するところについて考えてみなければならない。
あくまでも母たるナウシカに忠実に、「立派な人」になろうとする巨神兵は、彼を利用し、あまつさえ本心ではその死を願っている彼女の良心を突き刺す。そして「庭」の番人はまさにそこを問う。
テレパシーを使いこなせる番人は、幼い頃の優しい母の思い出によってナウシカを籠落しようとするが、ナウシカは「オーマに名を与えたときからわたしは心を閉ざしています」とはねつける。
「母は十一人の子供を産み 育ったのはわたしだけです 他の子は母の身体にたまった毒を身代わりにひきうけて死んでいきました あなたが見せてくれた母の心象はわたしの願望を利用した罠です 母はわたしを愛さなかった でも決して癒されない悲しみがあることを教えてくれました」(93年9月号、223頁)
マンガ『ナウシカ』全篇をつうじての圧巻と言える箇所である。誰にでも好かれ、愛される存在と見えたナウシカ、そして常人の及ばぬほどの愛する能力を持つナウシカの、その「愛」の限界がはっきりとここで明らかにされている。となれば彼女の土鬼の民衆への「憎しみより友愛を」との呼び掛けも力を失うのだろうか?
しかし、この番人の問い掛けの意味について考えてみなければならない。彼(彼女)の誘惑は何のためになされるのか? 「庭」の園丁を増やすためか? ナウシカがこの「庭」に到達したときには、普通の人間はそこにいなかった。人間の手などなくとも、この「庭」は自己を維持できるだけの性能を持っているらしい。人を「墓所」から遠ざけ、遠い過去の「帝国主義的ユートピア主義者達」の世界浄化の計画を邪魔させないためにか? 一般論としてはありうるが、ことナウシカのケースについては不合理な解釈である。何となれば、かの計画にとってはナウシカのごとき存在は計画にたいする脅威であるよりは、むしろ「青き衣の者」として計画の一部をなすものであるはずだから。番人の罠は計画の邪魔となるものも計画の一部となるものも、もちろん通りかかっただけの無関係なものも、見境なしに捕らえてしまうのだから、むしろかの大計画にとってはそれ自体が邪魔者さえであるはずだ。
「みな自分だけは過ちをしないと信じながら 業が業を生み 悲しみが悲しみを作る輪から抜け出せない この庭はすべてをたちきる場所」(同上、226頁)
間違いなくこれが番人の真摯な本音なのだ。かの大計画のためのタイムカプセルであると同時に、その計画の犠牲となって苦しむ浄化前のあまたの世代を生きる人間たちに、現在において残されたほんのわずかなサンクチュアリであるこの「庭」を守ること、それこそがこの番人の使命なのである。ナウシカと番人の最後の対話を聞こう。
ナウシカ「でもシュワの中心には別なものが仕組まれています 生命をあやつり オーマや粘菌を育て 大海嘯の呼び水となる技が漏れ出ています なぜ墓所には伝えるに値しない技が遺され 死の影を吐き出しているのですか?」
間違いなく番人もまた心を持っている。王蟲と同様に、計画のために造られながら、計画の意味を、そしてその向こう側を知る、「決して癒されない悲しみ」を抱える存在なのだ。
そしてナウシカはこの沈黙の答えを確かめるために、「扉をとざしにではなく こじあけてでも真実を見極めるために」シュワの「墓所」へと旅立つ。しかし、ナウシカのなかで答えは、決断はすでに下されている。シュワへの途上、護人として彼女を追ってきた「蟲使い」の若者たちに、「腐海」は世界を浄化しており、いつの日か人間は「青き清浄の地」で暮らせるだろう、と語った後ナウシカはこうひとりごつ。
「セルム 私は嘘をつきました これからもつきつづけます 人間は汚染にあわせて身体をつくりかえてしまった…… でもそれをみんなに伝えて何になるでしょう それに 私の中で何かが激しく叫びます 私が見た風景 あなたが案内してくれた 腐海の尽きる所 世界はよみがえろうとしていました たとえ私達の肉体がその清浄さに耐えられなくとも 次の瞬間に肺が血を噴き出したとしても 鳥達が渡ってくるように すべてをこの星にたくすべきだと… あの黒い墓所はおそらく再建のための核として遺されたのです 私はそれを破壊し闇に帰します」(93年12月号、242-243頁)
この言葉どおり、物語の終幕、オーマの力で「墓所」を破壊し、脱出したナウシカは、それ自体人工生命であった墓所の体液に染まった「王蟲の血よりも青い」衣をまとい、まさに「青き衣の者」として仲間たちと民衆に歓呼とともに迎えられる。真相をセルムと二人だけの秘密として。この欺瞞をどう理解すべきか?
この問いに答えるためには、まず第一に、ナウシカが番人の沈黙に聞き取った答えとは何かを、そして第二に、いまや人間にとって絶対的に到達不可能な場所となってしまった「青き清浄の地」が、なぜいまだにナウシカの胸を揺さぶってやまないのかを考えねばならない。
物語終幕、「墓所」最深部でついにナウシカとヴ王の前に姿を現わした「主」は巨大な卵のような形をしており、その表面には旧世界の知識を記した文書が浮かび上がっている。この文書は「冬至と夏至に一行のみ新たに生まれてくる」(94年2月号、208頁)、つまりそれ自体で一個の時計でもある。「主」自身の言葉によれば、「わが身体に現われる文字を読み その技を伝えるがよい すべての文字が現われた時 その日が来る 苦しみがおわる日が…」(同上、212頁)。
浄化の計画における「墓所」の機能は、一見したところよりも実ははるかにわかりにくい。まずここには時を止めた貯蔵庫である「庭」とは対照的に、計画の進行状況を計る時計という機能が考えられる。さらにより重要なのは、「清浄な世界が回復した時 汚染に適応した人間をつくりかえる技術」(同上、214頁)の保存である。「すべての文字が現われた時」とは「清浄な世界が回復した時」とシンクロナイズされているのであろう。ここまではきわめて明快である。
しかし、なぜ「墓所」は「庭」のようにひっそりと隠れたタイムカプセルであることに甘んじず、ピラミッドのごとき偉容をもってその存在を誇示しているのか? そして、なぜそこから「生命をあやつり オーマや粘菌を育て 大海嘯の呼び水となる技が漏れ出て」いるのだろうか? なぜ「墓所」は、遠い未来における浄化された世界のためにいく世代にも渡る人びとを、生き物たちを犠牲にするだけでは足りずに、今現在においても「生命をあやつる技をエサに 人間の奉仕を求める」(同上、215頁)のか?
世界浄化の計画が、徹底的に秘密裡に遂行されずに、欺瞞、詐術というかたちで中途半端に自己をさらすものである理由は比較的簡単に推測できる。「腐海」が尽きる「清浄な世界が回復した時」まですべてを秘密にしておいて、そのときがきて初めて世界中の人間に真実を「最後の審判」よろしく告知し、「墓所」まできて改造を受けよ、と呼び掛けるよりは、世界は浄化の過程にあるという知識を一応は普及させておいたほうが、清浄な世界への移行に際してのコストは低くすむであろう。浄化の過程が徐々に進行するものであって、ある日突然カタストロフィックに起きるものではないことから考えても、人間の側でも浄化の結果を受け入れるために長い時間を掛けての準備がなされたほうがよいことは理解できる。
あるとすれば、浄化の計画の存在を暗示するだけではなく、それに権威の後光をまとわせ、説得力を増すためにであろう。何らかの意味での現世利益がなければ宗教的権威と言えど確立はできない。そのため「墓所」は時の権力者たちに扉を開き、彼らの目的に奉仕してきた。その扉をタブーとして閉じていた神聖皇帝以前の土王でさえ、結局は「青き衣の者」の信仰を守ることによってその計画に奉仕していた。つまり恐怖の対象としてタブーとすることさえ、その権威にひれ伏す一つのやり方なのである。
旧世界における人間たちの愚行の連鎖を精算すべく実行された世界浄化の計画は、浄化の過程において結局また愚行の連鎖を生み出すことに荷担している。おそらくこの「輪」は「清浄な世界が回復した」あともとぎれることなく続いてしまうだろう。結局この計画自体が愚行の精算どころか、一つのとてつもない愚行にほかならないのである。
しかし、これだけのことであれば、繰り返しになるが、ノージックの「帝国主義的ユートピア主義」批判の射程内の議論である。問題は、そのような「帝国主義的ユートピア主義」、他のあらゆる可能性を否定し摘み取る計画自体も、その意図ぜざる結果として王蟲や番人のような存在、つまり必ずしも予定外とは言えずとも、計画自体のプログラムのうちに回収し切ることのできない別の可能性を生み出してしまうことがあるということだ。上人についても同様のことが言える。すでに見たように上人の偉大さは、自らの信仰と衝突するナウシカを「やさしく猛々しい風」として祝福することができたこと、単に世界の浄化のみならず、それを超えていくナウシカのような可能性を「永く待っ」ていたことにある。
世界浄化の計画の真相、その欺瞞を見抜いたあともなおナウシカをして「私の中で何かが激しく叫びます 私が見た風景 あなたが案内してくれた 腐海の尽きる所」と言わしめるものは、それゆえ単なる感傷ではない。もはや「一〇〇〇年かもっとたって あなたがもっと広く強くなっていて 私達が亡びずにもう少しかしこくなっていた」としても人間はけっしてそこには到達できない場所、それどころか「その時」には人間のほうがそれによって駆逐されてしまうであろう、絶対的に隔絶された存在となってしまった「青き清浄の地」を、計画ごと否定されるべきものとしてはナウシカはとらえていない。
ナウシカにとって今や「青き清浄の地」はいかなる意味においても、人間にとっての選択肢としての「可能性」ではない。そのかぎりでは、それは伝統的な意味での「ユートピア」ではない。だがそれはいわゆる「彼岸」ではない、明確に現実の世界のなかに「存在するもの」である。テレパシーによってであれ、ナウシカが実際にそこに旅した場所である。そして人間の手の製作物でもある。
これを仮に「ユートピア」と呼ぶとしても、それはノージックのユートピア主義の三分法のどこにもあてはめることはできない。それが「帝国主義的ユートピア主義」の直接の産物だとしても、ナウシカの裁定を経たあとではもはやそれを「帝国主義的ユートピア主義」の目指したものと呼ぶことはできない。それはおよそいかなるユートピア主義によっても目指しえない。それを意図して建設することもそこに旅することもできない。そうではなく、それは人間の意図にかかわらず端的に存在し、向こう側から偶然にやって来て、人間が抱く構想としてのユートピア主義の方を逆に審問に掛ける、言わば「他者」である。その出会いの体験は笠井が論じたような、可能性/不可能性の純粋体験に似ている。ただし笠井が結局はその姿をとらえそこなっている体験の根拠としての「他者」を宮崎はみごとに描いたのである。
ナウシカがこの「青き清浄の地」にたいするときのこの距離のとり方、関係のとり方をどう理解すべきか? ここでわれわれはあのナウシカと番人の対話を、そこでナウシカが確認したことを思い出さねばならない。けっして自分が愛することのできないものたち、けっして自分を愛してくれることのないものたちと、われわれは同じ世界をわけあって生きていかなければならないということ。そのような、愛の可能性の向こう側にいるものたちにたいして、どのような態度をとるのか? それは「決して癒されない悲しみ」の問題である。愛の癒しの手が届くことがないところ、誰もが抱えるであろうその「悲しみ」にたいしていかなる関係を取り結べるのかという課題。この問題はむろん「青き清浄の地」にのみかかわるのではない。ナウシカの人並みはずれた愛する能力、さまざまなものをその存在のそれぞれの固有性において肯定する力でさえも審問に付す「青き清浄の地」によって、さらに母の思い出や巨神兵オーマによって、極限的にはあらゆる人、あらゆるものとのかかわりにおいて浮上してくる問題として問われているのだ。
互いに互いの愛の可能性、理解の可能性の外側にいるもの同士が出会ったとき、憎悪と不信の支配するホッブズ的戦争状態はむしろ自然なことである。ナウシカが民衆に「憎しみよりも友愛を 王蟲の心を」と呼び掛けたとき、彼女はまさにこの「決して癒されない悲しみ」の問題にたいして憎悪と不信以外の道のあることを主張していたのである。しかしながら、民衆がそこに聞き取ったのはむしろ救済の福音、無限の愛する力を持ってすべてを引き受ける救世主、神の到来であった。そしてそのすれちがいをそのままに「墓所」への旅に出たナウシカは、「庭」でその道の峻烈なることを思い知らされた。その結果が彼女の最後の欺瞞、救世主の演技を通す決意である。彼女はその道を、あくまで自己の倫理としてのみ引き受けたのである。
この倫理の含意を十分に尽くす余裕はここにはない。当面ナウシカの世界においてはっきりしていることだけを記しておこう。まずそれは世界浄化の計画を拒否することによって、そこにあった人類の生存のためのプログラムをも拒否することになる。すでに述べたように、ノージックの理論にたいする功利主義的な批判、「正義行わしめよ、世界滅ぶとも」の倒錯への批判と同様の異議が、この倫理にたいしては提起されるだろう。それが他のすべての可能性を封殺する傲慢な計画であっても、それを拒否することは人類すべてを近い将来――長くとも数千年のうちに滅ぼすことになるのだから、と。それにたいして彼女は「それはこの星が決めること」(94年2月号、215頁)と答えることになる。たとえ人類が滅びるとも、「鳥達が渡ってくるように」生じるかもしれない他の可能性、たとえそれが人類にとって愛の可能性、理解の可能性の外側にしかありえないものであっても、そうしたものたちのための場所を空けておくしかないと。かの大計画は自分たちにとってのみ愛すべき人間、愛すべき自然の生存を、他のあらゆる可能性を封殺してでも保障しようとするものであった。しかし、それは結局、現実の存在としての人間、自然がまさに時々刻々と現在においても生み出している可能性をも封殺すること、「すべてを未来へ放り出して 今を無意味にしてしま」うことである(同上)。その一つひとつは「生まれ ひびきあい 消えていく」、「風や音のようなもの」である「私たちの生命」(93年10月、235頁)の意味を、種としての人類の生存、あるいは「清浄な世界」のために空虚にしてしまうことである。それゆえにナウシカは、それが結果的に種としての人類の寿命を縮めることになろうとも、浄化の計画を解体することにしたのである。
しかし、この倫理をナウシカは他の人間たちに強いることはできなかった。いや、語ることさえも。これは十分に了解できることである。この倫理は「森の人」の生き方と同様、あるいはそれ以上に達人的な、普遍的に共有されることが困難なものであろう。それゆえにナウシカは沈黙し、いや嘘をつくことにした。そこで物語は幕を閉じることになる。
ここで少なくとも、ナウシカが単に「ユートピアのための枠」を設定する以上のことを成し遂げたということは言える。しかし、彼女が提示したものは、単なる「枠」のなかでのユートピア実験の一例ではない。実践的にはそれは「腐海」のほとりでの業苦の生といういたって散文的な「政策」であり、同時に象徴的には「青き清浄の地」という彼岸的ユートピアの欺瞞である。しかし、この欺瞞の裏側にある、さしあたりは彼女一人の個人的倫理として引き受けられた「青き清浄の地」の真実は、ノージック的な「枠」などよりもいっそう高次の意味で「メタ・ユートピア」と呼びうるものである。それは「枠」のような抽象性をもたず、あくまでも具体的な実在でありながら、けっして人間にとって到達可能な選択肢ではありえない。にもかかわらず、それはその存在自体をもって、人間のなしうることを審問に付す、少なくともナウシカ個人は、自らの生をそれとの関係で審問に付し続けることを選んだのである。
彼女がこの真実を欺瞞をもって覆い隠したのは、「青き清浄の地」の審問に大多数の人間は耐えられないとの実践的判断ゆえである。「青き清浄の地」は人間一人ひとりを断罪しはしない。しかし、総体としての、種としての人類には死刑宣告を下している。この種としての人類への死刑宣告は、逆説的にも、「生まれ ひびきあい 消えていく」一人ひとりの人間にとっては解放を意味するものにほかならないのだが、なおほとんどの人間はナウシカや「森の人」とは異なり、種としての人類への自己同一化なくしては正気を保つことができないであろうと。
しかし、本当はこれから真の問題が問われることになるのだ。ナウシカが嘘をつきとおしたところで、真実は客観的に存在している。いつまで隠し通せるものだろうか? 何十年、何百年の内には、再び戦争の起きることもあるだろうし、またナウシカのような人間が現われることもあるかもしれない。そのときはいかなることが起きるだろうか? 誰に予想のできることでもない。ただ少なくとも、ナウシカは数千年後のほぼ確実な人類の滅亡(あくまでも「ほぼ確実な」でしかない)とひきかえに、そうした何が起きるかわからない未来を人間たちのために、そしてその他あまたのものたちのために切り開いたのだ。またナウシカはその倫理について語ることはなくとも、その生き方においてそれを否応なく示していくだろう。その結果、何が起きるか? ナウシカが救世主ではなく、それ以下でありかつそれ以上の存在であることに人びとが気づいたとき、どのような社会がそこに生まれてくるのだろうか?
このようにあまりに多くの問題を残したまま物語は終わっている。いっそ破綻していると言ってもよい。しかし、だからといって、マンガ『ナウシカ』が物語として完全に破綻した、エンターテインメントとしての失敗作であるというわけではない。それは一個の作品としてきちんと完結している。その点につき説明して、本稿をしめくくることとしよう。
最後に「旅」というテーマについて一言、語っておかねばならない。ノージックや笠井の所論に欠けていたもの、彼らによってそれが真剣に考察されれば議論のより深い展開が可能となったであろうもの、それが「他者」との遭遇としての「旅」の問題であった。そしてマンガ『ナウシカ』は言うまでもなく「旅」の物語である。物語の軸は主人公たちの旅によって引かれている。ナウシカ自身の探索の旅のみならず、ナウシカにゆかりある者たちの旅が同時平行して描かれ、語りはポリフォニックに錯綜する。この錯綜は物語をしばしば迷走させるが、逆にその緊張がエンジンとなって物語を前に進め、登場人物それぞれの視点から事態が描かれることによってさまざまな問題が次つぎと開示されていくことが、この物語の最大の魅力でもある。先に触れた「破綻」とはこれを意味している。本稿ではこの点について十分に触れることができなかったが、一点だけ述べておかねばならないことがある。
旅の物語は通常、ある場所を出て別の場所に辿り着く物語、あるいはある場所から元の同じ場所へと「行きて帰りし物語」、どちらかである。ところがこのマンガ『ナウシカ』はそのどちらとも微妙にずれている。アニメ『ナウシカ』のごとく救世主として聖杯を持ち帰る旅と最初は見えたものが、結局はどこにも行きつけない旅となって終わってしまう。しかし、それは宙ぶらりんではない。旅を続けることによって初めて、行き着くことのできない場所としての「青き清浄の地」がはっきりと見いだされる。この「青き清浄の地」が主人公たちそれぞれの旅の(到達点ならぬ)重心として物語を一つにまとめている。そのことによって、かろうじてではあるが、マンガ『ナウシカ』は一個の物語として完結しえているのだ。
児童文学というゲットーのなかでのファンタジー、SFの大半は、異世界冒険旅行記、「行きて帰りし物語」の体裁をとっていた。こうした物語が子供たちを(「外部」ではない)日常的現実に向けて「規律・訓練」していく装置であることは見えやすい道理である。エンデの『はてしない物語』はそのきわめて確信犯的な告白であった。しかし、このような制度への反逆を試みた達成もわれわれはいくつか知っている。たとえば日本において、アニメ『ナウシカ』に先駆けて80年代アニメーション・ブームの扉を開くこととなった『機動戦士ガンダム』(日本サンライズ=創通エージェンシー=名古屋テレビ、1979〜1980年)は、帰る場所を失って放浪し続け、最終回に至ってもなお安住の地を見付けることができない――かろうじてともにさすらう「仲間」のみが「帰る場所」である孤児たちの「旅」の物語を描き、「行きて帰りし物語」の枠を破ることにほとんど成功していた。しかし、その後の『ガンダム』シリーズの作品群はいずれも、「帰る場所」のない孤児たちが世界のなかで自らの位置を見失い、自己のアイデンティティ確立のための戦い――つまりは単なる「子供の喧嘩」のなかに世界を巻き込んで本物の戦争の惨禍を引き起こし、自滅していくという破綻した物語を紡ぐだけに終わってしまっている。それはまさに日本的な「ポスト・モダン」、「外部」も「他者」も見失った肥大化した自我の末路を示している。同時にそれは、『ガンダム』もまた不徹底であったこと――主人公たちが「帰る場所」を失いながらも、「帰る場所」があって初めて安定化するような、「行きて帰りし物語」の主人公たちと同様の自我を備えていたということを明らかにしている。
マンガ『ナウシカ』での「旅」には「自己のアイデンティティ確立の悩み」など立ち入る隙もない。帰るところも行き場も失った『ガンダム』の孤児たちがひたすら自我のうちへと引き籠もり、世界から疎外されたという被害者面をしながら逆に世界の方を疎外していくのにたいして、マンガ『ナウシカ』の主人公たちはそのような意味での自我などまるでもたない。『ガンダム』が結局は旅する主人公たちだけの物語であるのにたいして、マンガ『ナウシカ』は複数の旅人たちの物語であり、旅人たちが出会うものたちもまた固有の事情をもった旅するものたちである。王蟲など蟲たちは言うに及ばず、巨神兵、そして一カ所にとどまり続ける「庭」の番人、あるいは「青き清浄の地」でさえも、けっして自らのうちに、「アイデンティティ」などのもとにとどまり続けることのない旅するものたちなのである。
ノージックと笠井のそれぞれのユートピア論が失敗しているとすれば、「ユートピアの破壊というユートピア」を描くに終わってしまっているからである。論者の主観的意図はどうあれ、そうしたユートピア論が普通どのように読まれるのかというと、結局は単なる反ユートピア論、ユートピアに振り回されることの愚かさを避けて、居直り的な自己肯定、現状肯定を結論することの勧めとして読まれてしまうのである。「物語の破壊という物語」にしても同じことだ。
いかなるユートピア構想であれ、すべての人を満足させることなどできず、いかなる物語であれ現実をすべて解釈し尽くすことなどできない。たえず人間の欲望、意思、行為は、そして人間の手の届かない外にある現実は、そうした枠組みを裏切り続ける。ただし問題は、単なる反ユートピア、あるいは単なる反物語はそうした「外部」、過剰としての現実に人を向き合わせるよりは、そこから目を背けさせる方に機能してしまうということである。過剰としての現実を無理やりに「プロクルステスの寝床」に合わせて裁断してしまう狭量なユートピア構想や物語のほうが、逆説的にも、単なる反ユートピア、あるいは単なる反物語よりもそれにたいして真摯に対応しているのである。
マンガ『ナウシカ』は過剰としての現実、「われわれにとって想像もできないようなものが、かつてあるいはいま現在、またあるいは未来において、どこかに存在するのかもしれない」ということこそが、最も過酷なユートピアでありうることをわれわれに突きつけた。それをなしえたのは、この物語が「旅」の物語として描かれているからなのである。

 

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