ノーローンのサイトです。
暴利 当該 名前 増やせる により 入りまじっ 重視 しよう もちろん にくい 決め いくら 東京 入りまじっ 確かめ まきこま 不況 おなじみ 立証 良い 新着 十分 兄弟 東北 申込 コンビニ 無理 設置 為さ 買い取り

月曜日とは?/ ノーローン

[ 376] 月曜日発日曜日往き
[引用サイト]  http://d.hatena.ne.jp/mon-sun/

最近真面目に読んでなかった『ぼくらの』ですが、今月号のIKKIを読んでいたら、余りにも、これから起こるであろう『惑星のさみだれ』展開を予言していたので、色々と考えてしまった。
・勝っても死が伴う。『ぼくらの』はプレイヤーは死から免れないし、『惑星のさみだれ』もさみだれは余命幾ばくかだし、他のメンバーも死ぬことが前提のような契約(報酬)がある。
で、今月の『ぼくらの』だが、パラパラと見た限りでは、ウシロが仲間や妹の死や自分の親の死を観て、彼らの守ったもの(世界)を守る決意を固めるという感じだった。多分これが「小さな成熟」エンドという奴だろう。
成熟=「大人」になるということは、自分の死後の世界を考えるという事でもある。東浩紀がゲームをリセットしてもソレをリセットしたプレイヤーの時間はリセット出来ないというような事を言っているが、ここでウシロが選んだことは自分はリセットされるゲームの中の住人だが、そのリセットする「プレイヤー=超越的なもの」の成長に賭けるというような行動かもしれない。
話を戻すと、『ぼくらの』は成熟した人の背中をみて自分も成熟するというふうになっている。で、『惑星のさみだれ』も正にそうなりそうな展開である。多分主人公とさみだれは東雲半月・祖父・親・これから多分死ぬ仲間達といった人の背中やその人たちが守ろうとしたものを観て成長するのだろう。今でも主人公は成熟しつつあると思えるし(彼が東雲半月から受け継いだものは「技」だけなのか?)。まあ、これは至極つまらない終わり方だが、観るべきところがあるとすれば、上で書いたウシロの選択、つまり「プレイヤー=超越的なもの」の成長を描くのではないかということだ。魔法使いとアニマの2人が主人公たちの成長に影響されて、成長するのではないか。もちろん「プレイヤー=超越的なもの」とは「僕たち」のことに他ならない。つまり良質なメタフィクションとしての新しいエンドはまだ残されている気がするのだ。
酷くメモ的なものになってしまったが、まあまだ二つとも連載は終了していない訳だし、このぐらいで。
われわれが恥じ入るのは、アガンペンによれば、われわれ自身の存在が、引き受けることができないもの(逃れたいもの)として引き渡されている(逃れられない)からである。つまり、こういうことである。私が恥ずかしさを覚えるときには、まず、それは私自身である、と言うほかないような内密なものが暴かれ、現前している。たとえば、この裸は私自身である。と、同時に ――それは私にとって徹底的に奥深く内密なものであるにもかかわらず―― 私はそれを引き受けることができないとも直観している。つまり、私にとって徹底的に内密である当のものが、究極の疎遠性を払拭できないものとして私に対して立ちはだかっているのだ。このとき、私は恥ずかしい。
ブログという私自身と言うほかないものが、webにうpされる事によって、つまり一旦うpされたものがキャッシュをとられてコピペをされて、というように自分の手の内からどんどん離れていくというwebの特性によって、私が私自身に対してどうしようもなく受身にならざるを得ないからだと。
とても面白かったです。僕も刺激されて書きかけだったホーホケ論を思わず完成させてしまいましたので↓にうpしました。
僕たち、あるいは私たちは何故この「性」であって、他の「性」ではないのだろう。僕たちがいつも立ち止まるこの問いは、現在においても非常にアクチュアルな問いである。現在におけるBL、百合あるいはトランスジェンダー、フタナリ、女装、男装などの性倒錯的なジャンルやテーマの作品の勃興は何を意味しているのだろうか。僕たちはそこに何か特別な「あこがれ」を投影していないだろうか。
その「あこがれ」とは、自分と違う「性」への「あこがれ」である。自分がもし男だったら、女だったらというような欲望が働いているのではないだろうか。いやそもそも、僕たちは何故自分が違う「性」だったらと考えてしまうのだろうか。
そしてその様な時代、自分たちの違う「性」への想像への欲望が強まった時代をどう生きていくか?あるいはその中で自分の「性」をどう引き受けて生きていくか?それと向き合ったのが水城せとな「放課後保健室」である。
ここでは物語のあらすじの紹介は省くが、ストーリーは一見、男と女のどちらの性を選ぶかで終始葛藤している主人公・真白を描いているように読めるが、女である真白が男にあこがれ、また男にもなってみようとするが、結局女の性を受け入れる話である。それは作中のセリフにも表れている。
「それが運命をあなた自身が決めたというこのなのか 決まっていた運命を葛藤の末 受け入れたということなのか 私にはわからないけど」
これは僕たちが違う「性」を想像するがその<他者>性に挫折し現実に戻ってくるのと同じ構造である。しかし、ここで「放課後保健室」が面白いのは最初は男と女のどちらの性を選ぶか、という話に見えたように、本来選択不可能な性を(真白は女であることが最初からストーリーレベルで決まっている)、あたかも選択可能なものとして描いた点だろう。どういうことか?
シェリングの概念で「先験的選択」という言葉がある。これは「『すでに完了してしまった』という様相を帯びてのみ現れる選択」のことである。つまり水城はここで「性」を最初から決まっていてどうしようもないものから、本質的には選べないことには変わりはないが、自分には他の可能性を選べたのだ、というレベルにまで落としたのだ。選べないが自分は「過去のある時点で選べたのだ」いう錯覚を起こすこと、これはもう一つの「性」への想像力、つまり偶有性への可能性を開くということだ。
僕たちは決して自分が違う「性」になれないことを知っている。*1しかし、絶対的に不可能であるからこそ欲望し、時には苦しむのではないだろうか。真白のようにもうひとつの「性」をありえた物として、常に隣に置いておくこと。つまり、ありえた「性」を日常レベルで絶えず「決別」しつづけること。*2そのように生きることが逆に今の自分を肯定することに、そして、また自分の中の<他者>と「決別」することで、他の<他者>へも自然に開かれていくのではないだろうか。
ロールズの論理のどこに間違いがあったかは、今や、明らかであろう。いきなり無知のヴェールを被せて、自身が内属する共同性から引き剥がしても、人は、何も選択することはできない。何らかの工夫によって、まさに選択の領域そのものが形成され、変更されていく過程そのものを、主体たちに、具体的に再演・反復させる必要があったのである。
つまり僕達は男としてしか、女としてしか「性」を選択することができないのだ。それを再演するのが放課後の保健室でのゲームだし、それを反復させているのが、誕生日なのである。現実世界に生まれ育った真白の誕生日かつ自分のもうひとつの「性」の命日に、あるいは毎朝でかける時の仏壇への挨拶に、彼女の「選択」と「決別」は表れているのである。
思想地図のシンポジウムで「国民なきナショナリズム」「方法としてのナショナリズム」「メタ・アナーキズム」等が出てくるが、大澤真幸はこの本でもう一つ別の方法を「結 拡がり行く民主主義」の部分で提案している。
それを僕が理解した範囲で言うと、今の民主主義はゲマインシャフトとゲゼルシャフトの間の関係がうまく機能していないので、個人的な利害を追及することが何か社会的な・政治的な利益に繋がっていることを実感できない。こうなると無数の島宇宙・小さな共同体がバラバラに存在しているだけになってしまう。
だが、スモール・ワールド理論に「六次の隔たり」という仮説がある。これは、アメリカの国民4億人の中から任意の2人を選ぶと、その2人は平均してお互いの間に6人の知り合いを介して繋がっている、という有名な理論ですが、この理論を大澤は小さな希望の光と言っています。
どういうことか、私たちが普段、「無数の島宇宙・小さな共同体がバラバラに存在している」等と言うとき、思い浮かべるのは、小さな共同体同士の繋がりがなく孤立して存在している状態ですが、この「六次の隔たり」(これはある程度実験で証明されている)の理論を信じるならば、隣の小さな共同体は実は個人でも十分に見通し、想像ができ、また関係することができる共同体である。だとすると、現在真に活動的な民主主義はお互いに深い関係があるような小さな共同体の中でしか不可能だと思われているが、市民参加型でありつつ、なお広域に拡がり行く民主主義は十分に可能ではないか、というのが大澤の提案である。
だが、この提案は小さな共同体の中にその島宇宙を飛び越えて、別の島宇宙との繋がりを持つ人(色々な人と繋がりを持つノード)がいることが前提になっている。そういう人がいないからこその島宇宙なんじゃないのか、と疑問に思うが、大澤の議論によると現在は「虚構の時代」の次の「不可能性の時代」であって、家族のような親密な関係を突き破って、外部の〈他者〉*1と直接性の高い関係を結ぼうとする欲望が迫り出してきている時代である。そしてもう一つ、愛は憎悪と緊密な一体性を持っていて、前者は共同性を内へと閉じるが、後者はそれを外へと開く力である。つまり憎悪こそが愛の証となりうるので自然に共同体の外へと何本かのラインが引けるのではないか、と。
この二つは250pほど使って解説しているので、それは実際に読んでもらうとして、大澤はそのようなあり方を象徴する人を2人挙げています。それは、アフガニスタンで活動する医師中村哲氏と松本サリン事件の被害者河野義行氏です。前者には〈他者〉への近づきを、後者には松本サリン事件の犯人にも疑われ、また奥さんも同事件で重篤な障害を負ったにも関わらずオウム信者と交流を持っていることに、憎しみの中からも外へのラインが引ける事を示していると言います。
というような所が自分なりのまとめです。雑感として、上の三つの中では個人が小さな共同体の中で自分の利益を追求してもある程度大丈夫だと言う点では、東浩紀の「メタ・アナーキズム」と少し近いのかなと思いました。
そう言えば、この前リビングで思想地図読んでた時に、普段何やってんだか判らないような僕の親父が「俺、この前この中島岳志って人と飲んだよ。ぼっちゃんだなあいつは(意訳)」とか言ってたし、その前も「民主党の原口と○○*2について話してきたけどあいつやべーわ。話ながら同時にそれをパソコンでまとめるんだぜ(意訳)」みたいなことを言っていた。つまり「六次の隔たり」で考えるとこんな半ひきこもりのような地方の学生でも、前者では間に2、3人挟めば東浩紀や大澤真幸と、後者は2、3人挟めば小沢一郎や福田首相等と繋がったりするのである。これはすごいかもしれないが、だからなんだという感じではある。僕はそのことに積極的な価値を見出せないが、人は生きていれば何かしら社会に影響を与えていますよ、ということだろうか、よくわからない。
エロゲの選択肢はいつまでも待ってくれるし、そこでゲームをやめたっていいけど、現実は選択しないで先延ばしにしておくと酷い目にあったりする。
だからスクイズをプレイしてる時に、うっかり寝落ちしたら勝手にゲームがエンディングを迎えていたという事があって、そのクソゲーっぷりも相まって、なんか俺の人生っぽいなあ、と感じた。

 

戻る

ノーローンのサイトです。

ノーローンのサイトです。